『国力論――経済ナショナリズムの系譜』(中野剛志氏著、以文社)を読んで


 「経済ナショナリズム」の思想
 本書は、マルクス経済学と経済自由主義の陰に隠れて異端扱いされてきた「経済ナショナリズム」の理論の系譜に、光を当てなおす試みである。経済政策は「国家」政策であり、経済学はその政策に示唆を与えるべきものであるはずなのだが、方法論的個人主義を採る近代の主流派経済学の中には、「国(ネイション)」の概念そのものが見当たらない。それに対する「経済ナショナリズム」とは、著者によれば次のように主張する理論である。
 第一に、経済政策や経済理論は、国富そのものよりも国富を生む「国力」の増進に関心を注ぐべきである。それらの目的は、個人の経済厚生の向上や資源配分の効率性にではなく、「ネイションの力」の形成・維持・増進にある。
 第二に、経済は、それ自体が独立した自律的なシステムなのではなく、ネイションの中に埋め込まれており、政治・社会・文化と密接に関連することによって、ネイションごとに多様な違いを見せている。したがって、経済システムのありようを理解するためには、良識・経験・実践知を背負って社会そのものを総合的に解釈する、「解釈学的アプローチ」が必要である。また、経済の進歩を促すためには、政府の政治的な活動力によって社会の秩序を形成し、将来の不確実性を低減することが不可欠である。
 第三に、経済発展のためには国民統合が必要である。安定したネイションこそが自由な秩序を保つのであり、それは経済発展に不可欠の条件だからだ。また逆に、経済の発展と多様化は人びとの相互依存を深め、コミュニケーションを活性化し、国民統合を強化する。経済発展と国民統合は、相互依存関係にあるのである。


 修正される経済学説史
 著者はまず、経済ナショナリストの二大巨頭であるA・ハミルトンとF・リストの経済理論を、彼らの置かれた歴史的・地政学的状況をたえず確認しながら、詳細に検討してゆく。アメリカ建国の父の一人であるハミルトンも、アメリカの経済発展と「国力」に感銘を受けてドイツ国民統合のために奔走したリストも、ともに右のような「経済ナショナリズム」の立場から経済理論を構築していたのであった。
 続いて、こうした経済思想を唱えた二人の思想家が、D・ヒュームの哲学および政治経済学の正統な継承者であり、ヒュームの思想こそが「経済ナショナリズム」の源流であることが明らかにされる。ヒュームは、一般的にはA・スミスと並んで経済自由主義創始者と目されているが、著者はその通説を明快に斥けて、二人ともに経済ナショナリストであったと主張する。そしてヒュームの思想を綿密に検討し、彼が、人間と社会を研究するためのほぼ唯一まっとうな方法論としての、「解釈学的社会科学」を打ち立てていたことを明らかにするのである。
 私にとって最も新鮮な驚きに満ちていたのは、第三章の、G・W・F・ヘーゲルの『法哲学』を経済ナショナリズムの書として読解する試みであった。著者によれば、ヘーゲルはヒュームの思想を継承して、「解釈学的社会科学」の王道を歩んでいたのである。ヘーゲルによれば近代経済とは、近代国家の法制度によって自由の権利を与えられた「主観的意志」が、「欲求の体系」の中で他者と社会的関係を結びながら演じているダイナミズムである。このダイナミズムが複雑化するに従って、「不確実性」の増大や、分業による「仕事の抽象化」によって有機的な調和は失われてしまうが、それを防ぎ、個人を社会的・倫理的な秩序へと再統合する役割を果たすのが、政府の政策であり職業団体であるとヘーゲルは論じた。そして、そもそも主観的意志の権利を保障する近代的な制度自体が、歴史的時間の中で形成された共同体(つまりネイション)に支えられなければ成り立ち得ないというのがヘーゲルの見解であった。
 驚きはさらに続く。著者は、新古典派経済学の代表的論者の一人とされるA・マーシャルの理論も、通説に反して経済ナショナリズムの理論であると解釈するのである。マーシャルは経済発展の国ごとの比較研究や、歴史研究をきわめて重視していた。そして、原子論的個人ではなく社会的存在としての人間を前提にしなければならないと考えて、国ごとに多様な産業資本主義を、(貨幣への信頼、協同組織、学問や教育の制度などを含む)ナショナル・システムとして描き出したのである。マーシャルが経済自由主義イデオロギーから程遠いところにいたことは、彼が「経済騎士道」と名づける国民的倫理を基礎にした「真の社会主義」を唱えたことに端的に表れている。
 ヒュームからハミルトンやリスト、ヘーゲル、そしてマーシャルへと至る経済ナショナリズムの思想は、近現代の経済学においては異端視されることになった。しかし二十世紀に入っても、「国家的自給自足」のための経済政策の必要を唱えたJ・M・ケインズや、経済政策は各国のナショナリティを無視した普遍主義的なものであってはならないと論じたJ・ロビンソンや、経済発展と経済統合を実現するための福祉国家ナショナリズムなくしては成立しないと論じたK・G・ミュルダールや、ネイション・ステイトを単位とした経済成長の研究を確立したS・S・クズネッツなどのように、経済自由主義に抵抗して「ネイション」から経済を理解しようとした経済学者たちが、少数ながら存在していた。ただし、残念ながら彼らの思想も、とくに八十年代以降の主流派経済学や政策担当者からは、無視も同然の扱いを受けることになってしまったのであった。


 国力論と保守思想
 本書の成果には、重要な意義が少なくとも三つあると私は思う。
 第一に、経済学および経済思想の学説史を大きく覆していることである。スミスやマーシャルは主流派経済学の代表的な論者だと一般的には理解されているし、ヘーゲルなどはそもそも、哲学の文脈を離れれば、マルクスに影響を与えた全体主義のイデオローグとして取り上げられるのがせいぜいだ。著者も言うように、本書の成果によって経済学説史は大幅な修正を余儀なくされるのである。
 第二の意義は、現代の日本と世界が置かれた、危機的な時代状況を突破するための道を示唆していることである。著者は最終章で、日本のナショナリティを破壊し続けてきた「構造改革」と、その背後にある経済自由主義イデオロギーこそが現代の危機と混乱を招いたのだと厳しく批判し、「日本の国柄(ナショナリティ)を保守するための改革」を今こそ実行しなければならないと言う。そしてそのための理論的な根拠となるのが、経済ナショナリズムの思想なのである。
 そして第三に、私が最も重要だと思うのは、本書を通して「保守思想」が取り組むべき実践的な課題が明確に見えてくることである。
理論においても実践においても「ナショナリズム」こそが必要なのだとして、では、現代日本の社会にどのようにしてナショナリズムを適切な形で定着させることができるのか。本書の示唆を踏まえると、次のように考えられると私は思う。
 第一に、人間と社会に関する支配的な学説の欠陥を、理論的・実証的に分かりやすく指摘すること。
 第二に、「ここにもあそこにもナショナリズムが息づいているではないか」というふうに、具体的な事例を挙げながら、ネイションの存在を浮かび上がらせていくこと。「ポストモダン」と言われる現代にあっても、人間が歴史共同体の枠組みから抜け出てなどいないことを明らかにするのである。
 そして第三に、現代人が切実なものとして議論している諸問題──たとえば若年層の雇用問題、エネルギー・食糧などの資源問題、そして社会保障費の不足の問題など──について、それらが「ナショナリズム」や「国力」の視点を抜きにしては解決不可能であることを、具体的に分かりやすく論じていくこと。
 本書は、これらを実行するための土台を準備してくれているし、これらはそのまま、「保守思想」が今取り組むべき実践的な課題でもあるのである。


 「力の構造」とネイション
 本書は「国力論」と銘打たれているが、このタイトルには本書のエッセンスが見事に集約されている。本書は、「国」の理論であるとともに「力」の理論なのだ。近代経済学は、基本的には価値の「交換」の理論であって、価値が「創出」される現場を無視することで成り立っている学問である。西部邁塾長もかつて、「民間活力」というスローガンをエコノミストたちが声高に叫んでいたとき、経済学の理論の中に「活力」の概念が(少数の例外を除いて)存在しないことを指摘していた。
 本書の著者・中野氏も、価値の交換プロセスの構造のみならず、価値を創出する「力」そのものを直視することの重要性を繰り返し指摘している。そして、「力」の構造を検討し、その源泉を尋ねてみれば、歴史的存在としての「国」の姿が浮かび上がってくるというわけである。
 そういえば、六十年代から八十年代に流行したポストモダニズムも、記号の静態的な「構造」の分析から、構造のダイナミックな変化を生み出している「力」の分析へ移ることを主張していた(浅田彰の主著のタイトルは『構造と力──記号論を超えて』であった)。しかし結局のところポストモダニストは、「力は無秩序である」と結論付けてお仕舞いにしてしまった。
 必要なのはそんな安直な結論ではなく、以前この「発言者塾」で西部塾長が指摘していたように、人間の「活力の構造」を明らかにすることなのであり、また本書の著者・中野氏が言っているように、解釈学的方法と歴史学的方法によって「力」が生み出される様子を描き出し、そこに浮かび上がってこざるを得ない「ネイション」というものの姿を適切に捉えることなのである。

インターネットと将棋の衰退――ファミコン化する将棋


 一 将棋道場は最高の社交の場であり学校であった
 本年第五八回のNHKの将棋トーナメントで、九段の石田和雄先生が出場されるのを眼にし、思わず胸が熱くなり、懐かしさで涙が出そうになった。暫くお会いしていないが、石田先生は私が将棋の師匠と敬愛する方である。解説名人と知られ、筋のよい「プロ中のプロ」といわれる将棋で鳴らされた。一昔前は、A級棋士として活躍され、竜王戦の挑戦者決定戦にまで勝ち登り谷川浩司一七世名人と挑戦権を争われたこともある強豪である。石田先生は、最近活躍も少なくなっており、ここ十年以上、地道に柏将棋センターで子供や一般人への普及に努められていた。
 ベテランが予選を勝ち上がってテレビ棋戦に出るのは並大抵のことではない。秒読み将棋は若手棋士が滅法強く、ベテランは圧倒的に不利である。コンピュータばかりいじってデータ一点張りの若手全盛時代に、アナログ世代のベテランが活躍するのは容易ではない。現在石田先生は六一歳で、十年ほど近い前によく毎週のようにお食事をご馳走になったときに、「腐っても鯛だ」、「歳には勝てん!」とよくぼやいておられた。実に、人間臭い人なのである。勝てば大笑いし、負ければ泣きに泣く。その先生が、若手をなぎ倒して本戦にまで出られた。心から嬉しい。勝利を飾られ、「石田和雄健在!」を示されることを願う。
 私は高校時代、日中は家業の水道屋の手伝いをしながら、夜の五時から柏にある定時制高校に行き、九時まで勉強して帰り、週末は柏将棋センターに毎週のように行くのが習慣だった。対局後に多くのアマのベテラン・若手棋士と飲み食いした日々は楽しくて仕方がなかった青春時代だ。高校は中退してしまったが、夜学だったので友人がいろいろな経験を背負っている人がいて面白かった。こうした環境が私の人格形成に多大な影響を与えたのは間違いがなく、同年代の人間と話すよりも、五、六十の人と話しているのがよほど楽しいのは、このときからである。  大急ぎで立ち食い蕎麦を食い、腹を満たしてからトーナメントに出場し、優勝する。将棋そのものを指すことより、多くの人が集う、タバコの煙で充満していた(タバコ嫌いのくせに)賑やかで活気に満ち溢れた空間に足を運ぶのが大好きであった。そこには、老若男女が入り混じった、ちょっと作ってもなかなかありえない光景があったのである。まさしく自発的社交性(spontaneous sociability)が存在した空間だった。この良き空間を残しているのは、柏将棋センターか、御徒町や新宿の将棋道場くらいだろう。
 現代では、インターネットで将棋が指せるようになり、将棋を指すという目的を達するならば、席料千円を払ってまで道場に行くという手間をかけなくても指せるようになった。気軽に場所を選ばず、人にも会わず、ただ黙々とインターネットに映し出される将棋盤に向かえばよいのである。将棋における合理化が達成され、今、全国の将棋道場は一部の大きな組織力を誇る場所を除いて壊滅寸前にまで追い込まれた。子供たちが将棋道場に通うという習慣がなくなれば、個性を育む空間が死ぬことを意味する。合理化の結末が何を意味するのかを将棋連盟は深く認識しなくてはならないだろう。これは将棋に限ったことではない。インターネットという「無空間の空間」が日本中を占拠することで、人々の社交を媒介する場は確実に少なくなっているはずだ。現代高度情報化社会(ネット社会)とやらは、私にとって文化破壊の時代そのものなのである。


 二 升田幸三の将棋観
 私が将棋を始めたのが小学校の五年生の頃で、友達が教頭先生と指している姿を見て興味を持ったのがきっかけである。将棋との出会いは僥倖というほかない。それまではスーパーファミコンとかテレビゲームばかりに興じていたのに、全然やらなくなった。副作用として、勉強も全然しなくなった。将棋の出会いとは劣等生時代の始まりでもあった。家のじいちゃんも、クラスの担任の先生も私に勝てなくなり物足りなくなったので、六年生の時にはプロの所司和晴七段のもとで修行をするようになった。所司門下の渡辺明竜王や、清水門下の石橋幸緒女流王位なんかとも指した。石橋さんにはほとんど負けたことがなかったと思う。他の奨励会員(プロの卵・アマの四、五段)にもだいたい勝ち越していた。全国中学生選抜将棋選手権(名誉総裁三笠宮寛仁様)の千葉県代表にもなっていたのでプロ棋士を目指す道もあったが、経済的な理由が許さず、その道は断念することになった。
 高校時代は上述したように将棋道場に通い詰めで、高校を辞めると余計に将棋に熱中した。しかし、勉強もしないくせになぜか大学に行きたくなったので、暫く将棋から遠ざかった。このころ、何で将棋から遠ざかったのか。プロ棋士の指す将棋が本当につまらなくなり、将棋を指す意欲が減退したということによる。感動を与えるようなものが何一つない。アマチュアの目線を意識したプロが居なくなったのである。彼らは勝つという技術には長けるようになった。しかし、それを支える将棋観なるものがまるでない。まるで機械のように、マニュアル化された手を指す傾向が激増した。「コピー将棋」なる皮肉は、五十手以上も前例のある将棋をお互いに指し続ける様をいう。同じことしかできないなら「反省ザル」と同じだ。専門バカなのだ。
 実力制四代名人升田幸三は「プロ棋士なんてあってもなくてもいい職業なんだから、アマチュアの皆さんに感動を与える将棋を指さなくてはならん」と喝破した。実際に王将戦で升田八段は大山康晴名人に香車を引いて勝つという不滅の記録を残した。その升田は、途方もなく将棋が強いだけではなかった。確固たる将棋観を持っていた。終戦直後の話である。GHQが日本の文化を潰そうと躍起になったときに、当然ながら将棋もそのターゲットになった。アメリカ人の日本改造への執念深さは、大衆が縁台で好んで指す将棋にまで及んだのだった。GHQは将棋関係者を呼ぼうとし、その際に棋士たちが送り込んだのが舌鋒鋭い升田であった。GHQの将校は「将棋は相手から奪った駒を味方として使うために、これは捕虜虐待の思想に繋がる。野蛮なゲームではないか」と明らかに牽強付会の理屈を並べた。升田は、ビールか何かを持ってこさせて飲み干し、眼光鋭く言い返した。「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームだ。チェスは取った駒をそのまま捨てるが、これこそ捕虜の能力を殺し、まさしく虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げる。これはあなた方の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」。痛快無比。現役棋士として兵役に取られ、ポナペ島で死線をくぐってきた升田の理屈にアメリカ人は感服し、将棋は救われたのであった。


 三 将棋は「ファミコン」に成り下がった――「棋は対話なり」に帰れ
 私も現代文明に生きる人間なのでインターネットで将棋を指すことがある。通信対局といって、全国のアマチュア棋士だけではなく、プロとも指せるし、海外の人間とも対局が楽しめる。私の棋力は「将棋倶楽部24」というサイトでは二、四九七点の六段でかなり指しこんだが、「将棋を指しているな」という感じは全くしない。コンピュータだから生身の人間同士が相対する対局では起こりえないような駒の打ち間違いなども頻発し、そんなミスで勝っても果たして何が楽しいのかと思う。まさしく、今起こっている事態は将棋の「ファミコン化」ということなのではないか。内藤國雄九段が好む言葉に「棋は対話なり」とあるが、その精神に帰れといいたい。ネット将棋にあるのはチャットという対面することがない相手同士の記号が飛び交う世界だけだ。
 そう考えると、平成一五年での関東大学将棋連盟の団体戦には人間同士が戦う実感があった。これは、私にとって甲子園みたいなもので、A級では東大、慶応、早稲田、明治、立教、東海、中央といった大学のエースが集って七人同士が大学の名誉を争って対局するのだが、その様は扇子を開閉しバチバチと音を立てて気合十分に駒音高く指し進めるといった感じで、各一局につき小一時間の緊張感みなぎる死闘である。事実、相手を打ち負かすには「脳に汗をかく」ほど考えるために、傍らのお茶のペットボトルは欠かせない。このときに、七戦全勝したという記録があるからかもしれないが、思い出すほどに楽しいのは、人間たちが本当の意味で躍動しており、実に生々しい記憶として残っているからだろう。このときの、棋譜は宝物である。
 将棋の醍醐味は、やはり人間同士が向き合って戦うということにある。ちょっと見渡しても、アマチュアでは一時間強、プロでは朝から深夜まで向き合うゲームはそうそうない。顔を見て、「焦っているな」とか「こんな強がった手を指して、悪いと思っているな」、「随分ぬるいな、良いと思って油断しているな」と、読心術じゃないが、強くなるほどにそうした水面下の駆け引きが面白くなってくるのである。
 私は将棋とよく比較されるゲームである碁のほうはよく知らないが、碁は盤と白黒の碁石があれば簡単にできるゲームなのでグローバルに広がっている。韓国、中国のプロはもとより青い眼のプロもおり、碁からは日本の文化性なる体臭は感じない。将棋愛好家としては、碁と将棋を一緒にしないで欲しい。やはり将棋は、日本文化から出た最高に知的なゲームなのだ。将棋には坂田三吉について歌った村田英雄の「王将」、北島三郎の「歩」という、駒を擬人化した歌謡曲がある。坂田三吉の関根金次郎との死闘で出た「銀が泣いている」というセリフや、大山康晴相手に必勝の将棋を負けた際に出た升田幸三の「錯覚イケナイヨクミルヨロシ」でもよいが、将棋には人間臭い「物語」が満ちている。そんな「物語」を、インターネット対局をプロ棋戦に持ち込んでまで否定し去ろうとしているのは、将棋に携わる専門家たちなのかもしれない。将棋の「死」である。若手プロの人間力と棋力の低下を心配する河口俊彦七段は「要領のよい勉強法で早く強くなっても、皆んな似た将棋になってしまう。それより、自分の個性を伸ばす、無駄の多い勉強法の方が、将来大きく開化する」(『大山康晴の晩節』)と述べておられるが、何も将棋に限った話ではなかろう。棋士たちは、原点に帰るしかないのだ。

表現の自由とナショナリズム――映画『靖国 YASUKUNI』をめぐって

 ※『表現者』2008年7月号掲載


 『靖国』騒動の顛末
 戦時中の靖国神社境内には、陸軍の後ろ盾のもとで軍刀を製造する「日本刀鍛錬会」の鍛錬所が設置されていた。この鍛錬会に関わった刀匠の中では唯一の現役であり、今も高知県で鍛刀に携わる刈谷直治氏が、映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)のメインキャストである。映画は、刈谷氏の仕事の様子とインタビュー映像、そして八月十五日の靖国神社の風景が交互に映し出されるという内容のドキュメンタリー作品だ。まずはこの映画をめぐる騒動の経緯を簡単に振り返っておこう。
騒ぎの発端は、昨年十二月に『週刊新潮』が「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」報じたことで、これに触発された国会議員が、「助成」の是非について疑問の声を上げたのである。映画『靖国』には、文化庁管轄の独立行政法人日本芸術文化振興会基金から七五〇万円が助成されているが、この助成の基準のうち「商業的、宗教的又は政治的な宣伝意図を有しない」こと、および「日本映画」であることという条件を満たしていない疑いがあるとして、二月下旬頃に自民党稲田朋美議員が文化庁を通じて「国会議員向けの試写会」開催を要求し(三月中旬に実施)、また同党の水落敏栄議員や有村治子議員も国会で文化庁の責任者を追及した。さらには、刀匠の刈谷氏と妻の貞猪さんが、「政治的な内容でダメだ」「映画は刀作りのドキュメンタリーと聞いていた。李纓監督はもう信用できない」として、出演場面の削除を要求していると伝えられた(毎日新聞)。また靖国神社も制作者サイドに対し、不許可撮影や、日本刀を靖国神社の「御神体」とするなどの事実誤認を理由に、一部映像の削除を求めている。右派の論者からは、この映画で南京大虐殺の捏造写真が使用されているとの指摘の声も上がっていた。
そして右翼団体が上映中止を求める動きもあって、上映を予定していたすべての映画館が三月下旬に、「近隣に迷惑をかけるから」といった理由で上映中止を決定したのである。ただしその後、「表現の自由」をめぐって各種メディアで議論が相次いだ結果、当初よりも多数の映画館が上映に名乗りを上げて、五月三日に一般公開されるに到った。
 公開後、私もこの映画を観た。助成金問題については、「政治的な宣伝意図を有しない」とは言い難い内容で、ルールに従えばアウトということになるだろう。また、この映画について「政治的偏向はない」(鈴木邦男氏)、「左にも右にも偏向しているようには思えなかった」(呉智英氏)といった評も多かったが、どこをどう見ても反・靖国の映画であった。と言うか、そもそも作品の体をなしていない。刀匠の刈谷氏からは何も聞き出せていないし、靖国神社の風景を収めた映像も、殴り合いや怒鳴り合い、右翼団体や元軍人の奇妙なパフォーマンスなど、境内での様々な「騒ぎ」の映像を無雑作に切り貼りして、なんとなく「問題のある場所」であるという印象を煽ってみただけの映画であった。上映を阻止すべきだとは思わないが、かといって多くの人が観るべきだとも思えない。


 権力による抑圧か、自主規制か
 映画の内容よりもむしろ、今回の騒動をめぐって「これは言論や表現の自由にとって極めて深刻な事態である」(朝日新聞社説)、「いろんな嫌がらせや圧力で表現の自由が左右されるのは不適切だ」(町村官房長官)といった声が多数上がったにも拘らず、実りのある「表現の自由」論がほとんど見られなかったことを問題にしなければならない。
 今回の騒動では、表現の自由をめぐって、大まかに言って二つの批判(論点)が提出されている。一つは、助成の是非を糾した国会議員の行動を「表現の自由への政治的圧力であり、権力による検閲に等しい」(アジアプレス・インターナショナル代表・野中章弘氏)などとして批判する論。もう一つは、右翼団体の軽い抗議で上映をやめてしまった映画館の態度を、「言論の自由の最前線に立つ映画人がこれではあまりに心もとない」(エッセイスト・山口文憲氏)、「このとめどもない『ことなかれ』の連鎖はいったいどうしたことか」(毎日新聞社説)などと批判する論だ。
 前者の批判はほとんど取るに足りない。国会議員が「圧力」をかけたのだと言ってもそれは「助成金の支出を認めるか否か」というレベルの話であって、上映中止まで主張したのはごく一部の右翼団体だけである。山口文憲氏は「その後のメディアの調査報道によると、実際のところ、上映反対勢力は、大規模な街宣活動を展開したわけでもなければ、執拗な抗議を繰り返したわけでもない。私の見るところ、その責任の多くはやはり上映館や運営会社の側にあって、過剰反応をしたあげくに、彼らみずからが自粛パニックにおちいったと考えるほかはないのである」と述べている。あるいは、映画館がパニックに陥ったということすらなく、「彼らはその決断を『無表情に』、まるでビジネス上有利なオプションをルーチン通りに選択したかのような口吻で下した」(神戸女学院大教授・内田樹氏)という見方のほうが正しいかも知れない。
 つまり、政治権力による言論弾圧が行われたなどと騒ぐのは過剰反応であって、今回「表現の自由」を脅かすものがもしあったとすれば――私自身は、そもそもこの映画が「表現の自由」を叫んで守るほどのものだとは思わないが――、それは上映を自主規制した映画館側の、「セキュリティ」および「営業」への過剰配慮である。これは今回の騒動に限った問題ではない。近年、主としてポストモダン系統の社会学者や批評家たちが、現代において言論・表現の自由を阻害しているものは特定の権力者による弾圧ではなく、むしろ「セキュリティ」を過剰に配慮する価値観へとシフトした市民社会の自己監視・自主規制である論じている。言い換えると、特定の意見に反対する者よりも、その意見に本当は無関心な者たちの行動によって、自由な議論が妨げられるようになったということだ。


 「排除型社会」論
 そのような変化のプロセスについて、参考になるのは例えばスコットランドの犯罪学者J・ヤングの分析である。近代の産業社会から後期近代の消費社会へと移行するにつれて、いわゆる「大きな物語」が崩壊して文化は多元化したと言われている。しかし我々はその多様化のプロセスを通じて「自由」になったのではなかった。信頼に基づく共同体社会の紐帯が弱体化して相互の「不信」が高まり、同時に構造的な失業と非正規雇用の拡大によって「不安」が社会関係を覆うようになった。人々は互いの存在を「リスク要因」とみなし合ったり、相手から受け取るであろう便益と損害を計算して合理的に(正確には合理主義的に)付き合い方を決定したりする社会になりつつある――企業の取引が典型的だ――。そして、リスクを最小化するために「セキュリティ」つまり生命と財産の安全保障への配慮が過剰になり、またセキュリティを支援するITその他の技術の発達も手伝って、我々は、「多様性が多様性を妨げる」(ヤング『排除型社会』)という逆説的な不自由のなかに投げ込まれたのである。
 ヤングは、「後期近代社会における社会統制の基調にあるもの、それは『保険統計主義』である。……ここでは正義を追求することよりも被害を最小限にすることが求められている。……それが追求するのは、ユートピアをつくりだすことではなく、敵意に満ちたこの世界に塀で囲まれた小さな楽園をできるだけ多くつくりだすことである」(同書)と述べ、その社会を「排除型社会」と名付けている。ライフスタイルの多様性は賞賛されるが、その多様性を消費するための枠組み、つまり「セキュリティ」に対する脅威は神経症的に排除・管理され、そのためには自由であれプライバシーであれ犠牲にすることを厭わないという社会に我々は生きていると言うのである――営業とセキュリティへの配慮によってあっさり『靖国』の上映を中止した(そして上映を後押しする世論が高まり、営業上のメリットが確信されるとすぐさま上映に名乗りを上げた)映画館は、まことに現代的な振る舞いを見せつけてくれたのだ――。


 戦後民主主義の誤り
 このような社会が到来したことは、戦後民主主義の必然であると思われる。戦後民主主義は、「言論・表現の自由」に関して、少なくとも二つの大きな誤りを犯した。一つは、本来「言論・表現の自由」には、真理=真善美を追究する(ための自由である)という目的を設定しておかなければならないにも拘らず、単なる多様性礼賛に陥ってしまい、「言論・表現の自由」を盾にして真理をめぐる議論を回避することをも可能にしてしまったこと。もう一つは、人間は権力者のあからさまな強制から自由であったとしても、世論の流行や自らの独断に支配されてしまうことが大いにある――自由論の古典を書いたJ・S・ミルが主張したのも、「多数者の暴虐」が時として政府権力よりも暴力的に自由を阻害するということであった――のであり、我々には、自由に精神を働かせて真理を追究する「義務」があるにも拘らず、「権利」としての自由しか問題にしなかったことだ。
 この度の『靖国』騒動にあっても、「マスコミを見渡してみても、要するに、表現の自由って大切だよね、という、何十年も前から良識として言われていることをただ繰り返してみただけの議論ばかり」(呉智英氏)であった。「言論・表現の自由」に「真理の探究」という共通の目的が置かれることなく、しかもそれが義務ではなく権利にすぎないのであれば、危険を冒してまで「言論・表現の自由」を守ろうという動機など芽生えようはずもない。「自由愛好家は、自由を制限しないつもりでいたが、実はそれを定義しなかったにすぎない。単に自由を限定しなかったつもりが、自由を無防備にさせた」(G・K・チェスタートン)というわけである。


 言論・表現の自由ナショナリズム
 共通の目的のない無防備な自由が、「排除型社会」や「多数者の暴虐」を招き、暴力的に自由を妨げるという逆説に陥るということは、保守思想においてはほとんど常識的に予想されていたことである。ポストモダニストたちが今頃になって「多様性が多様性を妨げる」(ヤング)とか「消極的自由の拡大がむしろ私たちの自由を窒息させつつある」(東浩紀)といったことを指摘し始めたのは、いよいよ近代主義の矛盾が我々の生活を目に見える形で破壊し始めたということの証であろう。
 ではこの逆説から脱け出すためには何が必要なのか。保守思想の見解によれば(そしてポストモダニストはなかなか認めようとしないが)、それはナショナリズムに他ならない。自由には真理=真善美の追究という共通の目的が必要であり、また抽象的理念としての自由は、社会の歴史的な秩序に根差すのでなければ具体的な生命を手に入れることができないからだ。チェスタートンは「キリスト教は規範と秩序を明確に打ち立てたが、その秩序の何よりの目的は、善が思うさま奔放に活動する余地を与えることにあったのだ」と言った。彼が擁護したのはキリスト教の正統だが、我々の文脈では「国柄」のことだと理解してよい。あるいはもっと平凡に「公序良俗」のことだと言ってもいい。言論・表現の自由は、そうしたナショナルな規範を人々が徳として内面化することによってはじめて、保障されると同時に生かされるのである。
 そうであれば、「言論・表現の自由」を守るためにも、ナショナリティを動揺させるような映画の公開は原則として禁止されなければならない。もちろん、そんな危険な映画は滅多に出来上がらないであろうし、この度の『靖国』にしても、ナショナリティを危機に陥れるというほど刺激的な代物ではない。しかし原則論としてはそう考えざるを得ない。
 また、保守派は『靖国』が「政治的な宣伝意図」を有しているために助成のルールに抵触していると言うが、そのルール自体も間違っている。政治的な内容であっても、「公序良俗」に良い刺激を与えるような映画が資金難のために制作できないという場合には、政府は積極的に助成すれば良いではないか。


 歪んだナショナリズムの時代
 ところで私は「ナショナリズムを取り戻す必要がある」と言いたいのではない。人間社会からナショナリズムが消え去ることなどあり得ないのであり、現代日本にあっては、ナショナリズムは歪んだ形で存在しているのだ。ここで詳しく論じる余裕はないが、ナショナリズムを構成する諸要素──外交を通じた「対外独立」と内政を通じた「対内統合」、超越的価値へ向けた「宗教感覚」と死の意識に基づく「安全保障」、そして未来へ向けた「政治決断」と過去に対する「歴史解釈」――が、あるべきバランスを喪失していることこそが問題なのである。
 したがって今なすべきことは、我々が「ポストモダン」とか「後期近代(レイトモダン)」などと呼ばれる時代に到ってもなお歴史共同体と社会契約の二層構造の上に生活を営んでいて、相変わらずナショナリストたらざるを得ないのだということを指摘し続けること。そして、ナショナリズムの構造を包括的に捉えてその歪みを見通し、是正を試みることだ。そうした、ナショナリズムを語り直す作業を経てこそ、我々は自らの精神の自由な躍動を経験することができるだろう。

 ※ 文中の映画『靖国』に関する発言は、『論座』六月号の特集「『靖国』騒動への疑問」、および新聞各紙より引用。その他、映画パンフレット、『キネマ旬報』四月下旬号などを参照。

戦後史学における歴史否定の問題とその相克(後篇)

 八 「History」ではなくなった日本の「歴史」
 ここで一言、ランケ史学の問題点についても触れておかねばならない。近代歴史学の確立にランケが果たした役割は如何様にも否定できるものではない。とりわけ、未だ文学の領域と不分明であった歴史学史料批判という科学的方法論、すなわち実証主義を導入した功績は、たとえ彼に批判的立場を有するとしてもあくまで評価されなければならない。しかし、彼が抱懐する西洋中心史観は、当時世界の中でヨーロッパが置かれた位置がそうなさしめたとはいえ、その後も長く歴史学の世界を呪縛し、その意味で批判の俎上に上げざるを得ない。バイエルン国王マクシミリアン二世への進講集ともいえる『世界史概観』(原題は「近世史の諸時代について」" Uber die Epochen der neueren Geschichte"、岩波文庫、昭和三六年)の中で彼は記す。
 「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史の中に注ぎ、近世史の全体は、ローマ史の中から再び流れ出るということができる」。
 ランケに典型的に現れるこうした歴史認識は、時代区分法としては、「古代ギリシャ・ローマ時代」、「中世」、「近代」の三区分法として人口に膾炙する。言うまでもなく、マルクス唯物史観の歴史区分はこれを踏襲したものに他ならない。本来ヨーロッパ史を枠づけるものでしかないこうした歴史区分が、ヨーロッパ以外の国の歴史を無惨にも引き裂いたのは言うをまたない。こうした歴史認識は、日本へは明治一〇年以来、東京大学歴史学を講じランケの忠実な弟子でもあったルートヴィッヒ・リースによってもたらされる。ランケ史学に影響を受けた唯物史観と、西洋中心史観が、とりわけ戦後、日本史を実り豊かな物語とすることを妨げる。
 一方、ランケ流実証主義が、歴史を魅力のないものにしたことは否めない。それはまた、ランケを生んだドイツ史学の特徴かもしれない。ドイツ語で「歴史」を意味する「Geschichte」は、「geschehen」、すなわち「生じる、起こる」という動詞の名詞形であり、したがって「Geschichte」がもつ語感からすれば、歴史を「過去に起こったこと」ととらえているといえる。そうだとすれば、ともすれば歴史をして単に過去の出来事の陳列物としがちであり、その赴くところ過去の出来事をひたすら忠実に拾いあげようとする過度の実証主義を胚胎するその基盤を提供することにもなる。
 一方、英語の「history」は、同じく「歴史」を意味しながらも「Geschichte」とは好対照をなす。その語源、ギリシャ語の「historeo」は、「探究した結果を叙述する」という意味をもち、その語感からすれば歴史を本来「物語るもの」とみなしているといえる。もちろん、歴史は、「Geschichte」と「history」の両要素によって構成されるが、日本が影響を受けたドイツ流実証主義は、とりわけアカデミズムにおける専門主義の影響もあって、歴史をして単に過去の出来事の陳列としてきたことは否めない。ランケは歴史を文学から切り離そうとしたが、その行き着くところ彼の亜流たちによって歴史から「物語」の要素は捨て去られた。先に、昭和史論争の中で遠山茂樹が、歴史を文学芸術とはきちがえると、「社会科学の分析の外にはみ出し、感動すべきもの、非科学になってしまう」と述べたことを紹介したが、こうした極めて有害な謬論が歴史から物語の要素を排除した先に跋扈する。
 いずれにしてもランケ流の西洋中心史観、そしてその鬼っ子ともいうべき唯物史観、さらには合理主義という名のもと追求された実証主義によって、戦後に描かれる日本史はもはや人をひきつけるものではなくなった。


 九 歴史否定の相克を目指して
   ――オルテガ歴史認識をヒントに

 本稿の冒頭で私は、ヘーゲルマルクス(あるいはランケ)流の理性的歴史認識を一方に据え、他方に、理性哲学に抗すものとしてある、生の哲学を背景としたディルタイ歴史認識を置き、そのスキームの中で、戦後史学の問題点を考えてきた。太平洋戦争という尋常ならざる国難もあり、戦後史学が歴史を断罪し否定するベクトルを指し示しているとすれば、それは上記二つのスキームのうち、戦後史学が大きく理性的歴史認識にスイングしすぎたことと無縁ではない。もし歴史に正当な光を投じ、これに的確な評価を与えようとするならば、反対方向に振れすぎた振り子を呼び戻す以外に方法はない。そのヒントになりうるものが、理性的歴史認識とは異なる、ディルタイに代表される歴史認識であることもまた言うをまたない。
 実はこのディルタイを敬愛し、彼に極めて高い評価を与え、その方法論に沿って歴史を認識しようとした一人にオルテガがいる。オルテガディルタイをして「十九世紀後半における最も重要な思想家」(「体系としての歴史」)としたが、本稿は、戦後史学の中で歴史否定の相克に向けヒントになりえる極めて重要な歴史認識を提示したものとして、オルテガのそれを見ることで結びとしたい。
 そもそもオルテガにとって過去とは、理性的歴史認識がそう考えるように、過去は現在と断絶されたものではない。そもそも人間をもって「存在を累加し、過去を蓄積し続ける」存在とするオルテガにとって、「人間の真正の『存在』は、その全過去をひろげてよこたわっており」(同上)、「過去は、かなたに、その日付けのところにあるのではなくて、ここに、私のうちにある」(同上)。
 それゆえにこそ、現在的生の立脚点は過去の省察により見出される。
 「現在とは、過去の要約である。そして、過去を分析するということは、今日にいたるまでの人間の運命についてのパースペクティヴを現在的なもののなかに見ることを意味する」(「危機の本質」)。
 こう説くオルテガは、「過去を忘れたり過去に背を向けたりすることは、今日われわれが直面しているような結果を、つまり人間の野蛮化をもたらす」(「観念と信念」)とまで警鐘した。過去が深く現在と結び合わされているとすれば、それは未来も同様である。当然、「すでになしてきた生の経験は、人間の未来を制限する」(「体系としての歴史」)のは言うまでもない。
 時間の概念をこのように考えるオルテガにして、時系列を細切れにする理性的歴史認識とその典型たるヘーゲルは彼に敵するものである。「形式主義の彼の論理を歴史に注入したヘーゲル」(「体系としての歴史」)。オルテガはこのようにヘーゲルの歴史哲学を批判した。
 このヘーゲルを一つの典型とする、理性による歴史認識こそ、オルテガが克服せねばならないと考えたものである。したがってその淵源をなすデカルトもまた批判の俎上にのぼる。
 「近代合理主義の祖デカルトの体系の中では、歴史はその場所をもたない、と言うよりはむしろ追放されている」(「現代の課題」)。そのゆえんは、理性なるものが、「時間を貫いて不易不変に運動し、生けるもののしるしである有為転変には無関係の、非現実的な妖怪」(同上)だからである。したがってそれは、過去の人間の生をまるごと引き受ける歴史の実体をとらええない。人間を、「存在を累加し続けてゆく、すなわち過去を蓄積し続けてゆく」(「体系としての歴史」)存在、換言すれば、「彼の経験の弁証法的連続において存在をみずから形成し続けていく」(同上)存在とみなすオルテガにとって、そうしたものをとらえうるのは、「論理的理性のそれではなくして、まさしく歴史的理性のそれ」(同上)であった。そうであればあるだけ、デカルトの罪は深い。
 「デカルトにとっては、人間とはいかなる変化もなしえぬ純理性的存在であった。だから、かれには歴史は人間における非人間的なものの歴史と見られることとなり、われわれを理性的存在たることからたえず引きはなし、反人間的な事件へとおとしいれる罪深き意志を決定的に歴史に帰することとなったのである」(「哲学とは何か」)。
 そうしたオルテガにして、理性に代え、ディルタイの言う「解釈」や「理解」という概念を歴史に投じようとしたのは先に述べた通りである。オルテガは言う。
 「歴史とは、その最も根源的な原理、その固有の研究形式からしてすでに解釈であり、注解(嵌めこみ)であって、これは、個々の事実をひとつの生、ひとつの生きた体系のなかに組み入れることを意味するのである」(「危機の本質」)。
 以上のオルテガの歴史に対するとらえ方は以下の言葉に尽くされる。少し長い引用になるが、オルテガの歴史に対する姿勢が過不足なく、また遺憾なく開陳されており、歴史否定を相克しうるヒントがここにこそある。その言葉をもって本稿の結びとしたい。

 歴史とはまさに、かつてあったことをふたたびよみがえらせ、それを理念のなかでもう一度体験しようとする試みにほかならない。歴史はミイラの陳列であってはならぬ。歴史は、それが現実にあるところのものとならねばならない。それは蘇生への、復活への熱烈な試みだといってよい。死にたいする光栄ある戦いなのである。だから、一切の人間的なものが、というのは人間の生が、そこから湧きでてくるところの、そして、そこにおいてのみ生が現実性をもっているところの、あの永遠の泉――この泉からどのようにして湧きだしてくるかをしめさないかぎり、なにかをほんとうに物語ったとか、歴史的に叙述したとかいうことはできない。このような意味で、わたしが歴史という語によって理解しているのは、一切の事象をばその過去性を越えて、それの生の源泉にまでつれもどす仕事をいうのである。こうすることによって、わたしは、それの誕生に立ち会う――いや、むしろこういいたい――もう一度成立し存在するようそれを強いるのである。それをいわば新生児として、生まれたときの状態(status nascendi)に置かねばならないのである。歴史というものは、われわれが人間の過去全体をはかりしれざる潜勢的な現在に変え、現実にわれわれのものであるところのものを澎湃たる巨大な力にまでひろげることを得させてくれるものである(同上)。

道路関連報道に見る〈基本的国家了解〉の溶解

 道路行政を巡る否定的報道
 このところ連日「道路」の話題が新聞紙面やテレビの報道番組をにぎわせている。道路特定財源一般財源化や暫定税率の話題から、道路財源である五九兆円という数字や、一万四千キロの高速道路網計画や費用便益比、道路の中期計画など、ほんの半年前なら誰も話題にしなかったようなすこぶる専門的な用語が、連日連夜取り上げられている。とりわけ、年間予算六兆円という数字が衆目を集めているようであるが、この数字は何も政府が隠し立てしてきたものではなく、誰でも直ぐに調べられる公表値である。その一方で、この年間六兆円と対比して報道されているのが、道路行政の?無駄遣い?が如何に多かったかという報道である。無駄な道路計画、無駄な調査にはじまり、ミュージカル支援や無駄な海外出張など、道路行政に携わる人々の行為がありとあらゆる角度から調べられ、報道されている。
 筆者は普段、テレビのニュース番組を見る機会はあまりないのだが、今回のこの道路行政関連の報道は仕事の関係からある程度は見るようにしている。その報道を見るにつけ、何とも細かいことをよく調べてあるものだと感心せざるを得ない。
 特に一番感心したというか唖然としたのが、ニュースキャスターが事実情報の報道とは別に、相当強い調子のメッセージやコメントを発しているという点であった。例えば、「道路特定財源一般財源化することは既定路線ということですが、その一般財源化が形骸化されないように、しっかりと監視しないといけないですね」「皆さん、国に任せていてはどうしても無駄な道路がつくられるようです。こういった計画は地元に任せるよう、財源を地方に譲渡するようにすべきですね」等々。これらは、一つのネタが終わる時の締めのフレーズとして使われていたものであったが、例えば前者のメッセージは、一般財源化した時に道路行政をどう確保するかを論ずることを封殺する勢いであるし、後者のメッセージは国土的視野からのネットワーク形成という視点が不要であるかのような勢いである。おそらくは、連日ニュースをチェックしていれば、これと同等、あるいはこれよりももっと唖然とするような単純なメッセージが、ニュースキャスターの口から数百万人、数千万人の人々に発信されているのであろう。
 無論、テレビを見ている人々が、「このニュースキャスター、何訳わかんないこといってんだろうねぇ」なる反応をしているのなら、筆者としてもなかなか面白い事を言うキャスターだとばかりに落ち着いて見ていられる。しかし、どうやらそうでもなさそうである。細かいことは失念してしまったが、以前とあるニュースで数兆という道路財源の水準に賛成ですか反対ですかというような趣旨の世論調査を行い、実に九割の人々が反対しているということが報道されていた。繰り返すが、つい半年前までなら大半の人々が年間どれくらいの財源が道路に使われていたかを全く知らなかったはずであるし、ましてや、その財源が「どのように使われるのか」については現時点ですらほとんど理解している人々はいないに違いない。そうである以上、――今それを持ち出しても詮無い話ではあるが――?普通の庶民感覚?で言うならば、こうした質問には?分からない?と答えるのが筋ではないかとしか思えないところである。が、実に九割の人々が「反対」なる意見を表明しているのが事実である。このことはつまり、相当程度の人々は、ニュースキャスターの意見におおむね同意しているということを意味しているのである。


 大衆の気分の増幅装置としてのマスコミ報道
 ところでこうした事態がもたらされた図式としてしばしば想起されるものは、?報道番組側がある意見を持っている、?それを、大衆に報道する、?その結果、大衆世論はその方向に流れていく、という単純な図式であろう。しかし、実態は必ずしもそう単純なものではない。なぜなら、この?の「ニュースキャスターが持つ意見」なるものの源がどこにあるかと問えば、それはニュースキャスター本人が創出したというよりはむしろ、「大衆の気分」そのものだからである。すなわち、報道番組は大衆の気分が求めるものを提供しているに過ぎないのである。その意味において、報道番組は大衆世論の「生成装置」というよりは、大衆の気分の「増幅装置」であると見た方が適当であると言えるであろう。
 例えば筆者は、こうした報道が繰り返しなされる前に、次のような体験をしたことがある。
 筆者は、普段の仕事では道路行政のお手伝いをする事が多い。だからであろう、とある会食の席にて近しい人物に「道路って、本当にいるのか?」という質問を受けた。それは純粋な知的好奇心から尋ねているというよりは、当方が道路行政とそれなりの関わりを持っているということを前提に、当方をやりこめることを通じて道路行政を軽くいたぶってやろうという気配を十二分に漂わせた質問であった。当方としてはそうした気配もあるのだから、それとなく無視しても良かったのだが、一応「道路がない、というのでは交通が立ちいかないので必要なのは当然である。しかし、個々の道路事業については、要る場合もあれば要らない場合もあるだろう」と差し障りのない形で答えてみた。するとそこからさらに、道路の計画決定についての質問を立て続けに頂戴してしまったので、「計画決定されたのなら、それをちょっとしたことで何もなかったことにするというのは、あまりにもそれを決めた方に対して失礼である。そんなことばかりしていれば、今何を決めようが意味がなくなってしまう。一旦決めたことは、特に、国が正式に一旦決定したことについては、よほどの問題がない限り実行するというのは議論以前の問題だろう」とも答えてしまった。どうやら、これが癇に障ったらしく、「そんなのは不合理ではないか。国が決めようが何しようが、要らなければ作らなければいいじゃないか」ということとなり、挙げ句に「それじゃぁ、例えば、第二名神道路なんか、要らんのではないか?」と、具体的事例を挙げたさらなる追撃を受けてしまった。しかし、それにきちんと答えるには、実際のところ、それなりの情報がないと判断ができない。そして何より、自らが「決断する立場」にあるのなら、自らの情報量がどの程度であるかはさておき、とにかく可能な限りの情報を集め、その範囲で要る要らないを判断し、決断してみせざるを得ないのであるから、そうしようと志すべきであろう。ただし、そういう局面に直面していない単なる酒飲み話の席のような状況においては、「要るかも知れないが、要らないかも知れない」という事以上は何とも言えない(無論、「もし、自分が意思決定権を持つなら」というような仮想的議論を盛り込んだ会話をするのはなかなか一興ではあろうが、残念ながらそういう楽しい席にはなりそうになかった)。それをできるだけ分かり易く説明したつもりであったのだが、通じる気配はない。そんなやりとりの中で、先方から「第二名神道路なんか、絶対要らないだろう」なる発言があったので、ついつい、「絶対」に要るとか要らないとか、そういう断定的なことをおっしゃるのはいかがなものかと強い調子でたしなめてしまった。後はもう、自分のその発言がその場を凍らせてしまったので、この話はここで終わることになったのだが、いずれにしてもこの話は、今回の道路特定財源一般財源化の議論がマスコミで取り沙汰される以前から、一般の多くの人々が、道路行政に対して概して否定的な気分を抱いていたことを暗示しているように思う。こうした気分が大衆の中にあるからこそ、マスコミはことさらこの問題を取り上げているのであろうし、それがあるからこそ道路の話題が政治課題に上る顛末となったのであろう。


 基本的国家了解と怨恨
 ただし、この話の顛末は、道路行政に対する人々の態度を暗示しているだけに留まるものではないように思う。それは、多くの人々が「国家の決定」や「国民と国家の関係」なるものについての基本的な意味を了解していない、ということをさらに暗示しているように思える。
 個人的な事で恐縮であるが、筆者はものごころが付いた頃には既に、国家というものを何かしら「畏れ多いもの」として認識していたように思う。この感覚は、しばしば「お上意識」とも呼ばれているものであるとは思うが、いわゆるサヨク的な気分に大いに支配され、国家というものに対して相当に否定的な態度を持っていた学生の頃であってすら、筆者にそういう感覚をぬぐえずに抱いていたように思う。もう少し正確に言うのなら、筆者は世の中には「畏れ多いもの」なるものがあり、その一つに「国家」があげられると感じていたように思う。
 ただし、国家は(少々形容矛盾であるが)単に畏れ多いだけのものではなかった。自身の国家は、言うまでもなく「よその国」のようなよそよそしいものなのでは決してなく、自身と繋がるものであり、かつ、それ故にその振る舞いに自身が影響を受けると共に自身の振る舞いにも僅かなりとも影響を受け得るものと感じていたように思う。この感覚は、先の「お上意識」とは少々異なり、むしろその逆に「自らがお上に立つ」ことを想定した感覚であると言えるようにも思う。いずれにしても、この感覚は、おそらくは先に述べた「畏れ多い」という感覚よりも後の発達段階にて筆者の中に明確化していったものであろうかとは思うものの、それでもやはり、ものごころが付いた頃には、その感覚の萌芽は十分にあったように思う。
 つまり、筆者がものごころが付いた時には既に、好むと好まざるとにかかわらず、畏れ多いものであると同時に、自身のあり方に決定的な影響を及ぼしつつも自身の振る舞いにも依存しているものとして、国家を了解していたのである。
 無論、こうした筆者の個人的な「国家了解」がどういう代物であるのかを評価する能力を筆者は持たないが、それは何も特殊な感覚ではなく、それなりに社会的、歴史的に共有された感覚であったように思う。いずれにしても、もし仮に国家と国民の在るべき関係なるものがあり、その基本的な意味についての了解を〈基本的国家了解〉と呼ぶとするなら、この〈基本的国家了解〉こそが、先の人物、ひいては昨今の多くの人々において希薄、あるいは、欠落しているのではないかと思えるのである。
 もしもこうした〈基本的国家了解〉がなければ、国家などは単に、サービスを提供してくれるものに過ぎず、そのサービスを購入するために致し方なくカネを(税金として)払い込んでいるという機関にしか思えなくなるであろう。そして、そのようなサービス機関に「カネを支払ってやっている」にもかかわらず、そのカネを「勝手に無駄としか思えないような事業に年間何兆円もつぎ込んでいる」とするなら、大きな不満を感ずることとなろう。そして、その不満を訳の分からぬ国家権力等というもののために解消できない気配があるとするのなら、その不満はやがて「怨恨」(ルサンチマン)へと繋がることとなろう。ここでもし、この怨恨的気分を抱いているのが周りを見回して自身一人だけであるのなら、その人物は愛想笑いでも浮かべながら我慢せざるを得ないところであるが、周りに似たような怨恨的気分を抱いている人々が少なからずいることに気づけば、ましてや、何百万人、何千万人が同時に視聴しているであろう報道番組の中で同様の怨恨的気分が吐露されているのを見れば、ここぞとばかりにこの怨恨的気分の憂さ晴らし、うっぷん晴らしに走ることとなろう。先に紹介した話においてその登場人物が筆者に問いかけたのも、おそらくは、こうした構図があったからではないかと思う(事実、先の人物は、自らの正当性を主張する文脈の中で、「私みたいに感じているのは私一人ではない、あなた以外のほとんど全ての人がそう感じているのだ」なる趣旨を恫喝的とも言える語調で主張していたのは非常に印象深いものであった)。


 怨恨の嵐における絶望と希望
 さて、もしも、怨恨を基軸としたこうした世論の構図の描写が的を射たものであるとするなら、この事態を根こそぎ改善するためには、一々問いかけられる質問に真面目に答えるだけでは不十分であることは間違いなかろう。なぜなら、道路行政に対する様々な質問や疑問は、真理の探求のために投げかけられたものなのではなく、怨恨に基づく攻撃に他ならないからである。個々の質問に対する真面目な回答は、個々の攻撃を防御するためには必要であったとしても、攻撃意欲そのものを減退させるものではなかろう。おそらくは、こうした攻撃の勢いそのものを断ち切るためには、まずはその「怨恨」の消滅を目指さねばならぬであろう。そして、そのためには、〈基本的国家了解〉がその人物の精神の根幹に立ち現れることを期待せねばならぬのであろう。
 が、それは多くの場合、困難というよりはむしろ絶望的なことであるように思える――。
 とはいえ、大衆的な気分に満たされながらもその精神の根幹に〈基本的国家了解〉が朧気にでも胚胎しているような人物も中にはいるであろうし、そうでない人物においても、誰もがそうであるようにそのうちに死を迎えることであろう。怨恨の嵐が吹き荒れる下では種々の事態は悪化の一途を辿る公算は高いと言わざるを得ぬとしても、何もかもが根絶やしに破壊され尽くされることさえ回避できるのなら、これからものごころを付けてゆく幾ばくかの人々の内に幾ばくかの〈基本的国家了解〉の芽生えを期することは不可能ではなかろう。そうであるとするなら、希ではあったとしても望みが残されていると言うことはやぶさかではないのであろう。この世論に対して如何に対峙していくかの具体的な実践の形はその場その場の決断を待たねばならぬところであるが、その具体の実践のためにも、その精神が絶望に支配されることを回避することこそが、容易ならざることであるとはしても何よりもまず必要とされていることであるに違いない。

戦後史学における歴史否定の問題とその相克(中篇)


 五 「先祖に対して抱く共通の誤解」も必要
 「民族とは、先祖に対して抱く共通の誤解と、隣人に対して抱く共通の嫌悪感とによって結び合わされた集団である」、との言がヨーロッパにはある。一般にこの言葉は、所詮は民族なるものは幻影にすぎないとの例証として引用される場合が多いが、しかし、民族であれ、国家であれ、そうした集団がある種のアイデンティティを確立する際には、「先祖に対して抱く共通の誤解」、すなわち歴史が必要であることをも併せて伝える。
 もっとも、アイデンティティの確立に際し、歴史を必要とするのは何も民族や国家ばかりではない。個人にとっても、自己のアイデンティティを確立する上で自らの来し方を振り返ることは必要である。例えば、心理学者、榎本博明は、自己のアイデンティティの確立を期し、自らの歴史を振り返ることで語られる「自己物語」の重要性を指摘する。


 青年期の自己の探究とかアイデンティティの確立とか言われるものは、このような自己物語の構築を意味するものと言ってよいであろう。自分なりに納得がいき、なおかつ自分のことを理解してもらいたい周囲のひとたちを納得させることのできる自己物語の探究がいわゆる自己の探究であり、そのような自己物語が構築できたときにアイデンティティが確立されたという。このような自己物語をもつことにより、過去から現在に至る生活史の諸要素が一定の流れのもとに配置され、そこに人生の意味というものが現れてくる。自己物語が確立されていないと、自分としてのまとまりをつける求心力が欠けるため、日々の生活の諸要素がバラバラに散逸してしまう。アイデンティティの拡散とは、まさに自己の生活史をまとめあげる物語の欠如を指すと考えることができる(『〈私〉の心理学的探究』有斐閣、平成一一年)。


 自己のアイデンティティ確立について記す上記の文章中、「自己」を「国家」に、さらに「自己物語」を「自国史」と置き換え読む。と、なるほど国家アイデンティティの確立には自国史への深い理解が必要だと合点される。
 昨今、愛国心ということが喧しく語られるが、自国を愛すなどと口に出すことに面映ゆさを覚えるならば、それを国家アイデンティティの確立と言ってもよい。国を愛すなどということに嫌悪感を催すものも、よもや国家アイデンティティの確立までは否定しまい。その確立に何としても歴史が必要であるとすれば、歴史の否定は国家アイデンティティの崩壊を意味することは言うをまたない。
 しかし、現今の日本を顧みるに、すでに国家アイデンティティの崩壊は至る所に散見される。


 六 国際的「ひきこもり国家」=日本
 今、世上をにぎわす不登校、ひきこもりが、自己アイデンティティを確立しえないところから起こるのは言うまでもない。自己アイデンティティの未確立は、自己否定と軌を一にする。心理学でいうところの、「I am not OK」である。逆に自己アイデンティティの確立と「I am OK」とはパラレルな関係にある。この自信が、「You are OK」にもつながる。
 この関係を国家としての日本に置き換えると、一国平和主義といい、アメリカをはじめ余りにも諸外国に自己主張できない日本は、いわば国際的ひきこもりという宿痾に罹患していると言ってもよい。ひきこもりの背景に自己否定があるとするならば、自国の歴史をこれまでかと否定する日本が、国際的にひきこもるのは余りにも明快にすぎる。
 国際的ひきこもりを克服するかぎは、自国史への深い理解以外にはないが、それはまた良き国際人たる要件にもつながる。自国の文化であれ、歴史であれ、そこに土台を置かない者に、良き国際人たる資格はない。国際官僚として長きにわたり国連に奉職した明石康の次の言葉はそのことを伝える。


 国際公務員になることは、抽象的な世界主義に殉じることでもなければ、自国以外のすべての国を愛するディレッタントになることでもない。自国社会での適応に失敗して海外逃亡をはかる根なし草的人間と、職場としての国連とは無縁である。……国際官僚は自国でも立派に通用する人でなければならない。自国の文化なり思考様式なりに対する理解にたって、よい自国紹介者であることが必要な資格といえるのである(『国際連合岩波新書、昭和六〇年)。


 ギリシャ神話にも比すべき古事記の荘厳な神々の世界を詠じ、また、絢爛豪華な一大絵巻とも言える源氏物語をそれにふさわしい言葉で語る。そのような日本人の育成を、今や日本の歴史教育は放擲し去った。それは同時に良き国際人たることの放棄でもある。
 日本史への誇りと矜持の喚起をもはや日本人自らに期待することはできない。以下の話はそのことを物語る。


 七 ライシャワーの慧眼と「明治デモクラシー」
 理性の高みから歴史を眺め、場合によってはこれを裁くというスタンスではなく、過去への「理解」から虚心坦懐に明治以来の近代日本史を跡づけ、これに一定の評価を与えた一人が、ライシャワーという外国人であるというのは何とも皮肉である。
 ライシャワーは、大正デモクラシーは言うに及ばず、明治のしかも初期に「非常にリベラルな傾向」がすでに存在し、それがそのまま戦後の民主主義につながっているとし、次のように記す。


 どうやら、戦争直前の時代や明治時代のことから日本を考える人は多いが、大正から日本を見る人は少ないようです。ですが、明治前半には非常にリベラルな傾向が存在しました。それから明治後半に、強烈な帝国憲法時代へのスイングがきました。日清・日露の戦争と第一次世界大戦の時代です。それからまた、大正デモクラシーへと流れが変わりました。ついで、またもやスイング、反対の方へ曲がって戦争がきます。リベラルな方への二度のスイングと、反対への二度のそれと、どちらが重要なスイングでしょうか。リベラルです。ですから、明治初期、大正デモクラシーそして現代日本というのは、ほんとのひとつながりなのです(松尾尊允『大正デモクラシー岩波書店、平成二年)。


 こうしたライシャワーの戦前期デモクラシーの評価と軌を一にするものとして、近年興味深い本が出版された。『明治デモクラシー』と題するこの本の著者、東大名誉教授の坂野潤治は、早くも明治時代に確たるデモクラシーが存在し、それが戦後の民主主義につらなるとした。この著の「はじめに」で坂野は次のように記す。


 本書が明らかにするように、「主権在民」の思想は一九四五年の敗戦によって生れたものではない。それよりも六五年前の明治一三年(一八八〇)には、この思想は国民的運動の一角を支配していた。また、自由民主党の一党支配に対抗する、政権交代を伴った議院内閣制の主張も、最近の一〇年間に初めて生れたものではない。それは明治一二年(一八七九)には明確な形で定式化され、昭和七年(一九三二)まで、民主主義論の有力な一角として存在しつづけたのである(『明治デモクラシー』岩波書店、平成一七年)。


 ところで、すでに明治の初期にデモクラシーの基礎ができあがっていたとのライシャワー、坂野の所説は、理屈を超えて純粋に日本人としての誇りを回復させてくれる。先に『昭和史』の執筆者のうちの一人の遠山が、歴史社会科学の領域で人間を描くことが歴史をして「感動すべきもの、非科学的になってしまう」と警鐘したが、歴史を理性のうちに閉じ込め、それを感動と誇りの対象外においやったことで、我々日本人はいかほどのことを得たのであろうか。少なくとも現行の教科書がそうした感慨を呼び覚ますことはないし、それはもはや期待できない。
 その点、ここにどうしても記述しておきたい文章がある。それは常に私に日本人としての誇りを担保させてくれる私の最も愛してやまない歴史叙述であるが、それがまた外国人ネルーであるというところに一抹の悲しさを覚える。この文章はまた、暗黒に満ちたとされる戦前期の日本に一つの光明を与えつつ、その歴史的事件についての最も客観的公正な評価をなしたものとしても白眉である。それは日露戦争に関わることである。


 かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった(大山聡訳『父が子に語る世界歴史』第三巻、みすず書房、昭和四〇年)。
 (後篇に続く。)

山路愛山研究(その三) 英雄論に見る明治人の人間観

(前回の補足説明:文明は「手段」か「目的」か)
 1 前回、文明を「手段」と見るか「目的」と見るか、この二つの対立が明治思想家の間であったということを述べた。しかし、あれだけでは非常に分かりにくく、ラフすぎる。
 福澤諭吉は明治八年(一八七五)、『文明論之概略』で、「西洋の文明を目的とすること」と教えたのではなかったのか、お前は勉強不足だ、と日本思想史をやっている人間から批判を浴びること必定なので、今のうちに書いておきたい。基本的に主張自体は間違っていないと思っているからである。
 福澤においても時代状況において言論が当然変わるわけである。そんなことは当たり前のことだ。認識が変化することで思想家そのものの価値を減じることにつながるなどとは、私には全く思われない。また長期にわたる言論活動をなした思想家の発言には、青臭い時期もあれば、成熟する時期もあり、少々の矛盾はつきものである。
 福澤が「西洋の文明を目的」とせよと説いた時は、明治初年代において、これから「富国強兵」、「殖産興業」を目指し、「学校」や「工業」、「陸軍」、「海軍」といった「文明の形」を導入する段階に、どうしても民衆啓蒙として「文明観念」の拡大が必要であったからである。また、その発言がなされた時代背景という大きな流れを無視してはいけない。そういった歴史解釈にとって極めて重要な問題を省くから、歴史そのものの本質が遠のくのである。囲碁と将棋で「大局観」というが、これを忘れてはいけない。
 明治一二年の段階で福澤は、「蒸気船車」、「電信」、「郵便」、「印刷」といった文明の利器により、旧物が廃滅されることで、民情が全く変わってしまい、人々が驚駭と狼狽する、混迷の世界に覆われてしまったと説明するのである。文明の有効性を説いた本人が、こんどは違う認識を披露する。それは矛盾ではなく、知的な態度としては、誠実だ。過去の認識を恐れず修正できる思想家こそ、偉大だろう。では、『民情一新』をみてみよう。
 「しかるにここに怪しむべきは、わが日本普通の学者・論客が西洋を盲信するの一事なり。十年以来輿論の赴くところを察するに、ひたすらかの事物を称賛し、これを欽慕し、これに心酔し、はなはだしきはこれに恐怖して、毫も疑いの念を起さず、一も西洋、二も西洋とて、ただ西洋の筆法をもって模倣に供し、小なるは衣食住居の事より大なるは政令法制のことに至るまでも、その疑わしきものは西洋を標準に立てて得失を評論するもののごとし。奇もまたはなはだしと言うべし」と言う。
 文明のリーダー福澤が、日本人が西洋の猿真似をする愚を戒めているのは、「盗人猛々しい」と、思ってしまうほどだが、ここに注目しないわけにはいかない。研究者でも『民情一新』を重視する人はあまり少ない気がする。福沢には近代主義のリーダーとして存在し続けてもらわないと困るからか。
 彼は引き続いて、「今日の西洋諸国はまさに狼狽して方向に迷う者なり。他の狼狽する者を将って、もってわが方向の標準に供するは、狼狽のもっともはなはだしき者にあらずや」とまで述べ、もはや西洋文明自体を標準とすることはできないと断じる。それは、ある程度、『文明論之概略』で説かれた目的が達成され、文明の導入が進んだから言えることでもあった。
 福澤は「学問も政治もその目的を尋ぬれば、ともに一国の幸福を増進せんとするよりほかならず」(『学問の独立』)と言うのだから、「西洋人になれ」、「西洋文明自体に同化されてしまえ」、と教えたわけではない。でも当時の多くの人々はそう思っただろう、事実、山路愛山も、徳富蘇峰も、竹越与三郎も陸羯南も、当初は「物質主義者」にして「プラグマティズム」の総帥であった福澤へ、厳しい批判をなした急先鋒であった。
 福澤の言論活動の「目的」は当然ながら「一国の幸福」を願うことであった。西洋文明はその「手段」に過ぎない。


 2 文明そのものに、「文明的道徳」とつけて呼ぶ幸徳秋水に対して、「物質的文明」と強調する山路愛山。彼らは互いに平民主義者として、形は違えども明治三〇年代に社会主義を唱えることになるのだが、この文明観の差は想像以上に大きく、両者の社会主義思想に大きな影響を与えた。
 幸徳は「自由・正義・博愛・平等」、これが文明の道義であり、日本人も共有すべき価値であるとした。しかし愛山は、文明開化によって「撲茂・忠愛・天眞」といった品格や、それをつくる道徳を喪失したと説く。「東西に行なわる徳教の旨になんらの差別あるや」(福澤諭吉)なのである。愛山は西洋文明に道徳を発見せず、日本や東洋にそれを求めた。しかし、幸徳のような社会主義者は、輸入の理論に頼り、日本的な道徳には学ばなかった。
 基本的にこの対立図式は現代においても変わらず、明治の「西洋」が今では「アメリカ」に衣替えされただけだ。アメリカを「文明的道徳」と見なすか、「物質的文明」と見なすかで抗争は続いている。親米主義者は、アメリカンリベラル・デモクラシーのためなら「日本的な経営制度は時代遅れだから派遣や契約社員にしよう」、「民と官が結託した封建的な経済システムを放棄し、透明な市場主義を採用し規制緩和を進めよう」と主張する。
 反米主義者は、これに対して、アメリカ流の文明を目的とは考えない。「日本的経営制度」といった、日本独自の歴史的文脈から生まれた道徳に立脚した、特殊な価値観があるなら、これらを放棄し、アメリカに擦り寄るのは、おかしいと、国家共同体を保守する側に立つ。
 どちらかと言えば、近現代、常に注目を浴びてきたのが「文明的道徳」派であって、彼らは、西洋、時代を変えればアメリカ文明という「目的」に驀進し、日本的道徳を放棄し、国家共同体を破壊すべく運動した、左翼主義者である。真正の愛国者とは、文明の本質を物質的と見なし、目的は日本的な価値観を保守し、国家共同体の繁栄、防衛に努める人々であった。


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 七 明治の時代思想としての英雄論
 近代とは、「手段」自体を「目的」化した、倒錯(フェティシズム)の時代である。
 チャップリンが、『モダンタイムス』において、自分の身を歯車に巻き込ませるシーンを撮影してまで、機械社会をせせら笑った意図は何か。それは「機械は人間社会を豊かにする手段だろう。しかし、いまではその機械に逆に使われてしまい精神までも貢いでいる人間とは、滑稽じゃないか」という思いが根底にあってのことであった。
 山路愛山も「器械より人間が大事」と、この明治二三年に述べている。「思ふに日本の今日は器械既に足れり、材料既に備れり、唯之を運転するの人に乏しきを患ふる耳」(『英雄論』)と。本当の意味で器械(近代国家で出来上がったシステム)を使いこなせて、国家共同体を活性化し、動かすに足る、人間性を備えた人物の必要性を訴えているのである。「器械備付の業、略ゝ成れるを以て更に之を使用すべき人物養成に向はざるべからず」と。
 ここでわれわれが感じ取っておかねばならないのは、近代国家の法律・制度・機構が、一応の完成を迎えたときに際会し、「人々の品格を喪失しはじめたこの国は、滅びる」といった、彼の深刻な憂慮の念である。あの、政府批判で有名な陸羯南ですら、この議会制度確立期では、些か楽観的な傾向があったと言われている。
 愛山は、二三年に静岡袋井方面の伝道を命ぜられ「代用牧師」として赴任し、このすぐ後に、二四年創刊のメソジスト三派の合同機関紙的性格をもった『護教』誌の実質的主筆待遇をもって迎えられていたといった背景からも、彼の言説の背景を窺い知ることができる。「精神的革命は時代の陰より出づ」(『現代日本教会史論』)とは後世の発言だが、彼は旧幕臣の天文方の子供であり、新時代の「敗北者」という日陰者の愛山にとって、自身の活躍の場を何処に求めるべきであったのか。それは、文明開化の弊害として出現した「物質的社会」を正常に戻すための、精神面での「人心の改造」にほかならないのであった。
 しかし、その方法は容易ではなく、法律や制度、公教育といったものに、「人心の改造」といった機能を期待しえないのは、前回に見たとおりである。そこで「英雄を以て英雄を作る」べしとの、「英雄論」が提示されるわけである。
 「(三)吾人只一策あり是れ天然の法則なり、是れ歴史上の事実なり、何ぞや、英雄を以て英雄を作るに在るのみ。蓋し観感興起の理、所謂『インスピレーション』の秘奥は深く人心の裏に潜む、吾人今其如何にして英雄の品格が他の英雄を作り能ふかを弁解せんとする者にあらず、而れども生物が生物を生ずることが生物界の原則たるが如く、英雄の好模範が更に他の英雄を造るの一事は疑ふべからざるの事実なり、国家若し英雄漢あらんか、一波萬波を動し、一声四辺に響くが如く、許多の小英雄は恰も大小の環の如く、中心なる大英雄を取巻きて、一団の人色を造るべし、彼等は斯の如くにして革命を催すべし、国の元気を回復すべし、其土地の鹽となるべし、其世の光となるべし、大学に所謂一家仁、一国興仁、もの是也」(『英雄論』)。
 英雄には大英雄、小英雄といて、両者が循環することで、人材の「動脈硬化」を未然に防止し、人材を流動化させることで、「生き物」である国家共同体を活性化させることを狙いとしたのであった。時代精神を体現しえるのは、英雄という存在以外にはありえないという見識ともなり、これは実際に彼の史論に結実した。英雄史観を構築した彼は、『源頼朝』や『足利尊氏』、『豊臣秀吉』、『徳川家康』、『荻生徂徠』、『新井白石』、『西郷隆盛上』といった一連の人物評伝を残す。とりあえず、この「大英雄」と「小英雄」については、大変重要な問題を含んでいるので次回に述べることにしたい。
 「英雄論」なんて、陳腐な話にしか聞こえない人もいるかもしれない。しかしながら、愛山に限らず、明治人が理想とした史上の人物像、未来に向けてのあるべき人間像、といった問題なしに、この英雄論を考えることなどできないのである。それだけ、文明開化の時代とは、人間性に対する大変革を伴っていた。西洋化に対して、日本人がどんどん変わってしまうといった極めて強い危機意識が、明治思想家たちの間にあったことは、想像するに難しい問題ではない。その反動が、英雄論として出現した。
 少なくとも、『英雄論』と名のつく書物で、筆者が所有しているのは、福本日南(安政四年〜大正一〇年〔一八五七〜一九二一〕)や三宅雪嶺(万延元年〜昭和二〇年〔一八六〇〜一九四五)といった人物の書である。すなわち、この『英雄論』とは、明治思想家の間に、かなり幅広く流通していた時代思想の一つといってよかろう。その理由ははっきりしている。カーライルの『英雄及び英雄崇拝』といった論が、彼らに対して甚大なる影響を与えたのであった。
 カーライルの思想を解説して柳田泉は「カーライルのこの書は、唯物思想からいへば、ある意味で、正反対に立つものである」(『英雄及び英雄崇拝』春秋社、カーライル著、柳田泉訳、昭和二五年〔一九五〇〕)と述べる。「カーライルが唯物思想を排斥したのは、排斥のための排斥でなく、彼が何よりも急にするところと触着するところがあつた為であつた。彼が人生に於いて第一に尊んだのは、人間の人間としての生き方である。彼は、人間は神の創造の中心に立つもの、従つて物に役されて生きるのは間違ひで、人が物を役して、神の道に生きるべきであるとした。彼はこれを英雄的生き方と呼んだ。(中略)カーライルのいふ神とは、宇宙を宇宙たらしめ、人間を人間たらしめてゐる主宰者のこと、彼のいふ英雄は、人間の世界にありつゝも、他の人間よりも多くの神の道――真実(Truth)を意識して生きる人々のことである。彼はかゝる生き方を真誠(Sincerity)といひ、これに反対の生き方を偽善(Cant)とよんだ。かゝる真誠の生き方が、人間の英雄・偉人としての生き方であり、その真誠への認識に、人間社会の真の土台があるとした」(同前)。
 愛山が土台とした人間観、英雄観も、カーライルからの継承であった。唯物的人間とは、ただ単に呪物崇拝の如く「モノ」を尊ぶ人間だけを言うのではない。愛山は、人間としての精神的な豊かさを忘れ、器械そのものに使われ、法律や制度という共同体社会を運営するシステムそのものに、「人心の改造」を委ね、「人間が中心となり動かす共同体」という本質を忘れた者たちにその姿を見たのであろう。
 彼の近代文明が生み出した状況に対する危機意識は、誠に深いものであった。