山路愛山研究(その二) 文明批判と近代人の本質


 ――愛山における一番の優先順位は、国家共同体に他ならず、これらを破壊するのは近代文明と認識していた。


 四 文明は手段なのか目的なのか、近代日本二つの視点
 前号は、ざっと山路愛山の共同体思想における一番の要所といってよい「社会三元論」を紹介した。愛山においては、皇室・紳士閥・平民が国家共同体を構成する成員であると分析され、紳士閥(大富豪)が「個人主義自由主義」(愛山はこのように並列する)のもとに、己の利得のみを追求し、結果として労働者階級・平民級の存在そのものを脅かし、共同体を破壊している現状があるといった、深刻な認識が存在した。
 これは明治という時代のみに通用する見識なのであろうか? 歴史的条件とはその時代にしか具備されえないかもしれないが、今なお、愛山が説くところの国家共同体も存在し、社会三元論に至っても基本的に残存している。皇室、大富豪、平民といった階層や、基本的な社会構造は大枠ではさほど変化していないということを確認しておきたい。共同体の成員に対し、「各々其の処を得」せしめ、本来のあるべき役割を論じて、先祖・生者・子孫と続いていく悠久の生命体である国家共同体を保守しようとしたのが愛山思想なのであり、平成改革で国家共同体が破壊された現在もなお学ぶべきものが多くあるはずと考えている。
 愛山においては、紳士閥という存在が共同体を脅かすと認識され、その文脈においては大富豪を指すのだが、彼の青年期においては、近代文明そのものが国家共同体を脅かす存在として把握され、その対応策を提示するところから思想家として出発したということに着眼したい。紳士閥とは近代資本主義の主要な担い手であり、近代文明の象徴的存在なのであった。つまり、紳士閥へ批判的な目を向ける以前の前提条件として、文明こそが彼らを製造し、助長したといった認識があったことは到底看過しえないであろう。
 明治時代においては、二つの対立する文明観が存在したと見てよかろう。第一に彼らの認識では、文明は、世界的な帝国主義下の弱肉強食といった時代状況において、国家の生存のためにも物質文明の導入は必要であったから受容したのであり、それ自体が本来的には異質な存在であるといった理解。第二は、明治時代生まれの、明治維新の恩恵と新時代到来の感動を保持し続け、近代文明とは自明の前提であり、文句なしに素晴らしく人類が到達した最高の段階であり、そこには違和感を見出さないといった文明に対する牧歌的認識。前者は文明に対して悲観的見解を有し、それ自体が手段に過ぎないという姿勢があるが、後者は逆に楽観的であり、文明こそが目的であるといった認識である。具体的な人名を挙げれば、前者は明治一二年(一八七九)『民情一新』を著わし、西洋の近代文明が今や驚駭と狼狽といった大混乱を招き、これからの日本も、文明に対して警戒を怠るべきではないと、鋭く警鐘を鳴らした福澤諭吉の立場である。文明の指導者にして扇情者とみなされる彼は、文明を人一倍知るがゆえに悲観的観測でその将来を眺めていた。
 後者が明治四年(一八七一)生まれの幸徳秋水を代表とし、彼は『帝国主義』を著わして、文明という純化された価値を脅かす、「汚らわしい帝国主義」を批判し、社会主義という手段で人類が生んだ最高の目的を守ろうと試みた。明治四四年(一九一一)に、秋水は勤皇家であったが、不幸にして大逆事件で死刑にされた。
 前者が文明を「手段」と冷静に認識し、あくまで目的は国家の繁栄であるとする以上は文明を価値観として受容してそれ自体に熱狂することはないが、幸徳のように文明を「至上の価値」であると認識すると、文明の価値を守るために熱狂してサンディカリズムアナーキズムなどの行動に驀進するようになる。
 山路愛山は前者であり、彼は元治元年(一八六四)の生年で、旧幕臣という出身でもあり、江戸時代の価値を、「サムライ族」として濃厚に残す人物でもあり、近代西洋文明に対して距離感をもって眺める人間の一人であった。やがては近代こそが共同体を破壊するといった認識を獲得するようになるのである。


 五 文明は物質的人間を製造したに過ぎない
 山路愛山の事実上のデビュー作は、明治二三年(一八九〇)一一月一〇日に静岡劇場若竹座において演説草稿として残る『英雄論』であろう。
 この年は、大井憲太郎や中江兆民らが自由党を再興し、愛山も記者として参加する徳富蘇峰らの『国民新聞』が創刊され、府県制・郡制が公布され、第一回の衆議院議員総選挙が行われ、教育勅語が発布されるといった、まさに近代の政治機構、法制度が一応の完成を見た時期である。こういった時代の課題とは、文明開化のあり方を含めて、今後の日本の将来を総合的かつ俯瞰的に問うていくというべきものであった。それには『近時政論考』で知られる、近代日本が生んだ最高の政論家であった陸羯南安政四年〜明治四〇年〔一八五七〜一九〇七〕)の以下の発言がこの時代の雰囲気を言い表しているので引用しておこう。
 「帝国議会の選挙既に終わりを告ぐ。立憲政体は一二月を出でずして実施せられん。世人の言ふが如く今日は実に明治時代の第二革新に属す。如何にして此の第二革新は吾人に到着せし歟、必ず其の因りて来る所あるや疑いなし。天皇の叡聖にして夙に知識を世界に求め、盛んに経綸を行はせ給ふに因ると雖も、維新以来朝野の間に生じたる政論の運動は与りて力なしと曰ふべからず」(『陸羯南全集第一巻』)。
 つまり、今までの明治維新からの継承として、その思想力を総結集し、明治二十年代における近代化が固まった時代の未来を切り開いていこうといった宣言であろう。愛山が『英雄論』を著わした時代はこのような背景を持つ「第二革新の時代」なのであった。
 では、文明開化の成果とは一体どのような内容を持っていたのか。愛山曰く。
 「金色人種に、破天荒なる国会は、三百議員を以て、その開会を祝さんとて、今や支度最中なり、私権を確定し、栄誉、財産、自由に向て担保を與ふべき民法は、漸く完全に歩みつつゝあり、交通の女王たる鉄道は何れの津々浦々にも、幾千の旅客を負ふて、殆ど昼夜を休めざる也、日本の文明は真個に世界を驚殺せりと云ふべし」(『山路愛山集 明治文学全集35』)。
 文明の進歩はまさに驚くべきものがあった。国力を増進させた。人々の生活は便利になった。しかし、文明の成果はあくまで物質的進歩に留まったのであり、精神的には堕落である。
 「夫れ物質的の文明は唯物質的の人を生むに足れる而巳、我三十年間の進歩は実に非常なる進歩に相違なし、欧米人をして後へに瞠若たらしむる程の進歩に相違なし、然れども余を以て之を見るに、詮じ来れば是唯物質的の文明に過ぎず、これを以てその文明の生み出す健児も、残念ながら亦物質的の人なる耳」(同前)。
 つまり、文明は本来物質的なものに過ぎないのに、文明そのもの自体に踊らされた人間は、物質的人間に成り下がってしまったというのである。「色眼鏡」をかけて、「タバコ」を吸って、「フロック、コート」を威儀堂々と着こなす人々は、「銅臭紛々」とし、その撲茂、忠愛、天真といった品格を失った。「古来未だ嘗て亡びざるの国あらず、而して其亡ぶるや未だ嘗て其国民が当初の品格を失墜したるに因らずんばあらず」(同前)なのである。
 こういう時代状況を打開するには、唯物的ではない、その対極にある、品格と徳義を保持した理想的人材を養成する必要があるのであって、そこで提示されたのがまさに「英雄」といった存在なのであった。
 では英雄はどうしたら製造できるのか? 勿論近代的な手法では物質的人間を生むだけであろう。


 六 近代的な人材育成は国家共同体の活力を奪う
 愛山の批判する、近代的な人物養成法とは以下のようなものだ。
 「(一)世間或は第一九世紀の董仲舒を学んで法律、制度を以て人心の改造を企つる者なきに非ず、然れども法律、制度はたとひ十分其効果を奏するも猶人を駆りて模型に鋳造するに過ぎずして、其精神元気を改造するの用を為し能ふ者に非ざるは歴史上の断案なり」(同前)。
 法律・制度万能主義批判である。人間が主役の共同体である。なんで、人間が生み出す法律や制度に自分らが使われ、人心の改造が達成できるのだろうか。チャップリンの映画『モダンタイムス』では、工場で働くチャップリンが機械を使っていたら、やがては逆に機械そのものに体ごと飲み込まれるシーンがあった。チャップリンは「モダン」の本質をそのように読み取ったのであり、彼に云わせれば、「物」に使われて、やがては、精神を磨耗させ人間性を喪失した人々を「近代人」と呼ぶのである。陸羯南も云う。
 「国は永久に存立するものにして其の目的も亦た永久に存立す、故に国の生命及目的に比すれば政体の変更僅に一時の出来事に過ぎざるなり。政界に賤丈夫あり、国其物の大目的を知らずして徒らに一時の変更を畢生の目的と為し、憲法の実施に遭ひて彼岸に達したることゝと思ひ、議会の開設に際して国の能事畢れりと思ふ。是れ何等の誤謬ぞや。議会は開設せられたり、我が人民の幸福安寧は何程の進歩を為すや、憲法は実施せられたり、我が帝国は何程の富強を増し、何程の品位を高めたるや、吾輩請ふ其の説を聴かん。方法を見て目的と做すものは猶ほ寝食を以て志業と為すが如きのみ」(『陸羯南全集第二巻』)。
 憲法だ、議会だ、といった存在はあくまで国家という悠久の生命体からすれば、国家繁栄の為の手段に過ぎず、一過性の現象であり、形式なのだ。民主・自由と形式ばかりを重んじ、「仏作りて魂入れず」と言わんばかりに、その中身に無頓着な戦後人を見たら、羯南は同様の指摘を再度おこなっていたに相違ない。
 「(二)更に学校教化の作用を借りて人心改造の途となさんとする者あり、是前法に比すれば固より賢しこき方法なるべしと雖、斯る注入的の教育を以て人物を作らんとす、吾人其太だ難きを知る、昔し藤森弘庵藤田東湖語りて曰く、水藩に於て学校の制を立てしこと尋常一様の士を作るには足りなん、奇傑の士は此より跡を絶つべしと学校の教育必しも人物製造の好担保たらざるなり」(同前)。
 愛山は独学の精神を重んじ、明治三二年(一八九九)から務めた信濃毎日新聞主筆時代に「田舎の定石を知らない強い碁打こそ理想だ」と述べ、「都会の先生から学んだ定石通の碁打」を心底軽蔑した。つまり、ここで批判の俎上にあがっている学校制度も「都会の定石通の碁打」を生み出すに過ぎず、ひ弱な鋳型なのであった。田舎の知識とは、困ったことがあれば、誰かにやってもらうわけにもいかずなんでも独力で解決しなくてはならないために、総合的で実際に役立つ知識なのである。活力ある知識だ。迷路に入り込んでも長年の経験とカンで克服するのが「田舎の碁打」である。
 都会の碁打は定石に詳しいばかりで、見たことがない局面に到達すれば、豊富な定石の知識も役に立たず、周章狼狽し、結局は負けに至る。愛山は歴史、中国思想、教育論、比較文明とフィールドを選ばずに活躍した総合知の思想家であり、近代の特徴である社会分業的な、局限された領域しかない、役立たずの専門主義者は、唾棄すべき存在であった。しかしながら、博識であればよいということでもない。問題は知識の質だ。当時博識で名高い井上哲次郎と高橋五郎をからかい、「シェークスピアを読まなくては文学がわからないなら、どうしてシェークスピアシェークスピアになれたのか」と皮肉り、「博学だけにては余り有難くもなし、勿論こはくもなし」(『明治文学史』)と述べ、真の智慧なき知識人だと批判した。
 (一)はまさに学閥に支配された官僚が支配する世界を生み出し、(二)では都会のひ弱な人材を生み出す。ともに、近代的な人材育成方法であり、鋭い近代批判となっていることにお気づきであろう。愛山は、近代人を批判し、英雄論を提唱する。次号で見ていこう。

戦後史学における歴史否定の問題とその相克(前篇)


 一 ヘーゲルか、ディルタイか?
 「あらゆる歴史は、過去である」
 「あらゆる歴史は、現代史である」
 ここに二つの文章を設定してみた。前者は、広辞苑による歴史の定義、すなわち歴史とは、「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」から必然的に導かれる文辞である。
 後者は、イタリアの歴史家クローチェによる、つとに知られる命題である。ところで、我々が通常に持つ語感からすれば、当然歴史とは過去のものであり、その意味では前者の文辞に断然説得される。しかし、歴史とは単純に過去に属するものであり、現在とは無縁のものであると、そう簡単には切り離し得ない。その意味で、後者のクローチェの命題にこそ、歴史というものの真髄があるのは言うまでもない。
 「あらゆる歴史は、過去である」との文辞は、歴史哲学の領域でいえば、ヘーゲルの拠って立つ立場から必然的に導かれるものである。ヘーゲルの歴史哲学は、歴史を理性や精神といった高みからとらえる。いや、むしろ歴史は、理性や精神がその未熟な段階から理想的なそれへと自己発展を遂げる場の意味しか与えられず、その自己発展の過程を弁証するものに他ならない。したがって、理性や精神の自己発展の過程である歴史は、何よりも進歩の歴史であり、過去よりは現在、現在よりは未来のあり方が優れたものと認識される。逆に過去は、現在、未来という高みからは厳然と切り離された未熟なものであり、その高みから容赦なく断罪される運命を背負ったものとなる。
 頭で逆立ったヘーゲルの観念論を元に戻したとするマルクス唯物史観もその呪縛から解き放たれてはいず、やはり歴史は未熟な社会から輝かしい共産社会へと至る道程を弁証するものでしかない。ここでも過去は現在、そして未来に仕える奴隷たる地位を免れない。この奴隷をいかように扱おうが、それは現在、未来の人間の自由である。
 それに対し、「あらゆる歴史は、現代史である」とのクローチェの命題は、歴史哲学的にはディルタイのそれから導き出されるものである。理性哲学の対極にある「生の哲学」を基盤としたディルタイ歴史認識は、歴史を理性や精神という高みからとらえない。「理解」という言葉とともに知られる彼の歴史認識は、認識者自身の歴史存在への「追構成」、「追体験」がその前提としてある。つまり認識者自身が歴史に身を投じ、歴史的疑似体験を経ることで、その創造的再現を試みるのである。その営為自身が、過去は、現在、未来と密接に関わるものということを前提としており、無論、現在、未来の高みから過去を断罪するという方法論からは解放される。まさに「あらゆる歴史は、現代史」であり、過去の苦しみ、過ちは、現在の我々がそれらを共有すべきものであり、逆に現在の呻吟は過去にその淵源を求めうるものとなる。
 もちろん、ヘーゲル流の歴史認識であれ、ディルタイ流のそれであれ、それらはともに完璧なものではない。前者は過去をいたずらに犠牲にしがちであり、後者はともすれば、過去に情けを置きがちになる傾向は避け得ない。しかし、マルクス唯物史観の大波にさらわれた戦後史学は、余りにも前者の歴史認識にシフトしすぎた。しかも、その眼前には、断罪するにこれほどの好餌があるかという太平洋戦争が存在する。その赴くところ、太平洋戦争とそこに収斂される近代日本史の過程は、基本的には暗闇につつまれたものであり、できうれば我々日本人の記憶から一刻も早く消し去りたい歴史の過程に他ならないものとなる。そうした歴史認識の典型的な例を我々は家永史観に求めることができ、今もってその残滓が拭い去られたとはいえない。


 二 家永史観と教科書叙述の現状
 自身が執筆した高等学校用日本史教科書が文部省検定によって不合格とされ、それを不服として起こされた、いわゆる「家永教科書裁判」で知られる家永三郎は、その著『太平洋戦争』の中で、この戦争を「汚辱の歴史」として、次のように記す。
 太平洋戦争の歴史は、日本の歴史上に前例のない汚辱の歴史であり、人民惨苦の歴史であった。日本史の研究者はこの動かすことのできぬ厳然たる事実をたじろがぬ勇気をもって見つめることが必要であり、美化された偽わりの歴史に代わる客観的な史実を国民の前に明らかにすることが、科学的研究を生命とするものの義務であると確信する(『太平洋戦争』岩波書店、昭和六一年)。


 家永が「汚辱の歴史」とするそのシンボルが、南京事件であり、従軍慰安婦問題であり、七三一部隊となるのだろうが、家永は『太平洋戦争』では悪罵の限りを尽くしこれらの問題に触れるも、検定不合格を受けてその不合格教科書を世に問うた『検定不合格 日本史』(三一書房、昭和四九年)では、さすがに教育の現場ということを配慮したのか、意外にもこの三点には触れない。
 逆に、教科書上における「汚辱の歴史」追求に関しては、むしろ近年ますますエスカレートする。今、私の手元にある四社の教科書(山川出版社三省堂桐原書店実教出版株式会社)では、南京事件従軍慰安婦問題については記述の差こそあれ、全ての教科書で触れられ、七三一部隊については、そのうちの二つ、桐原書店実教出版の教科書で触れる。とりわけ桐原書店のそれは、上記三点を強調する傾向が最も強く、七三一部隊については他社とは異なり、本文中でその所業を記述する。加えて同部隊を「細菌戦部隊」と太字で紹介し、研究棟の写真までが掲載される。
 家永史観であれ、それを受けた現在の教科書叙述であれ、前節で触れた二つの歴史哲学のスキームでは、ヘーゲルマルクス流の歴史哲学が生み出した赤子である。その意味で、こうした教科書叙述の現状に異を唱えるべく立ち上げられた「新しい歴史教科書をつくる会」の設立趣意書の中に、ディルタイにおける歴史哲学上重要な術語である「追体験」という言葉が見えるのは何とも興味深い。それに言う。
 「わたしたちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」。
 そう考えれば、家永史観と現在の教科書叙述と、対するに「つくる会」の設立とは、歴史哲学的には、一方におけるヘーゲルマルクス歴史認識と、他方におけるディルタイ歴史認識のそうした対立軸がその根底にあるものと言える。


 三 歴史から人が消えた!
 太平洋戦争とその前史が、マルクス流の唯物史観の仮借ない洗礼を浴びる様は、家永史観に加え、遠山茂樹今井清一藤原彰の共著による『昭和史』(岩波書店、昭和三〇年)がその顛末をあますところなく伝える。発売わずか四〇日余で六刷りを数えたベストセラーでもある。
 経済的下部構造を重視する中、人間の主体的な営みを軽視するこの史観に異を唱え、後に「昭和史論争」と呼ばれる論争のきっかけを作ったのが亀井勝一郎であった。亀井は『文芸春秋』に、「現代歴史家への疑問」(昭和三一年三月号)と題する論文を寄せる。亀井は言う。「『昭和史』を私は通読したが、また現代歴史家の欠点を、これほど露出してゐる本もない」。
 亀井がそう断じた批判の専らは、唯物史観に付随する人間の営みの軽視、あるいはその描写の乏しさに向けられる。その点を亀井は、「この歴史に人間がゐない」、あるいは「個々の人物の描写力も実に貧しい」とした上で、「昭和史は戦争史であるにも拘らず、そこに死者の声が全然ひびいてゐない」と苦言する。さらにこう断罪した。
 「要するに歴史家としての能力が、ほぼ完全と云つていいほど無い人人によつて、歴史がどの程度死ぬか、無味乾燥なものになるか、一つの見本として『昭和史』を考へてよい」。
 それに対し、著者の一人遠山茂樹は『中央公論』に、「現代史研究の問題点」(昭和三一年六月号)と題する文章を寄せ、亀井の批判に応える。人間がそこにいないという亀井の批判に対し、「その言葉に異議はない」と同意した上で遠山は、そもそも歴史学と文学とでは人間の描き方に違いがあるとしてこう述べた。
 「私がはつきりさせたいことの一つは、歴史社会科学で人間をえがくことと、文学芸術で人間をえがくことの、内容上のちがいである」。
 そしてその点をはき違えると、「歴史は科学の分析の外にはみ出し、感動すべきもの、非科学になつてしまう」として、自己の立場を弁じた。
 この論争の中にもまた、人間の具体的描写を通じ、歴史をディルタイ流の「理解」に沿って構成すべきだとする亀井の立場と、一方、上部構造にすぎない人間の営みを通じて歴史をみるのではなく、あくまで下部構造によって規定されるところの歴史的法則に歴史を沿わせようとするマルクス唯物史観の対立がある。
 いずれにせよ、ディルタイ流の歴史認識とは対極に振れすぎた家永史観、そして『昭和史』史観によって、太平洋戦争とその前史が極めて空疎なものとなってしまったうらみは消えない。


 四 丸山真男の功罪
 戦後論壇の寵児となり、文字通り戦後思潮をリードした丸山真男が、政治学上に残した足跡はあくまでも偉大である。戦前の京都学派に代表されるように概念的、形而上的傾向が強かった政治学を、しかと社会科学の中に位置づけるなど、西洋合理主義的観点から政治学を根拠づけようとした功績は、いかようにしても否定しきれるものではない。しかし、理性の高みから歴史を分析するという、その合理主義的手法が効果を上げているかという点については疑問が残る。
 敗戦に打ちひしがれた多くの人々の心をとらえた有名な論文「超国家主義の論理と心理」(『世界』昭和二一年五月号)もまた、戦前日本の歴史分析としては物足りない点が残る。
 そのゆえんは、丸山がヨーロッパの国家のあり方を一つの理想として、その高みからそうはなり得ていない戦前の日本を断罪することに終始している点にある。
 例えば、丸山はヨーロッパの近代国家の特長が、カール・シュミットの言う「中性国家」、すなわち国家そのものが真理や道徳などの価値については中立的立場をとる点にあるとした上で、日本の場合、天皇制国家に象徴されるように如何にそうなり得ていないかの叙述に終始する。つまるところ丸山の手法の欠点は、なぜそうならざるを得なかったのかのゆえんにつき、過去に自らを投じ、その点から歴史を理解し分析するということの欠如にある。
 それは戦前を分析した丸山の他の論文でも見受けられる。「日本におけるナショナリズム」と題する論文において丸山は、ヨーロッパの古典的ナショナリズムのように日本は、それとデモクラシーの諸原則との「幸福な結婚」がなかったとし、それゆえに日本のナショナリズム、ひいては戦前の日本が、民主化が目的とする「国民的解放の課題を早くから放棄」せざるを得なかったと分析した。しかしながら、考えてみれば日本とヨーロッパとでは近代国家への歩みのタイミングやその諸条件は全く異なっていることは言うをまたない。そうしたことをすっぱりと捨て去った上で、単にヨーロッパのナショナリズムをひとつの基準に、日本のナショナリズムのありようを批判する丸山の方法論には最終的には合点しかねる。要するに丸山が言うように、「中性国家」が理想としても、ナショナリズムとデモクラシーとの「幸福な結婚」が望ましいとわかっていながらも、それには日本と英仏とでは余りにも客観情勢が異なりすぎていたとの点には顧慮が払われない。
 このような丸山の歴史に対するとらえ方の対極にあるのが、彼の好敵手とも言うべき小林秀雄のそれである。過去への「理解」の下、過去をしてじかに語らせることで、現在にその像を浮かび上がらせるべきとする小林は、本居宣長に仮託しそうした方法論の必要なるゆえんを説く。宣長をはじめ、古人の歴史に対処する姿勢を、「事物に即して、作り出し、言葉に出して来た、さういふ真面目な純粋な精神活動」(「本居宣長」)と評価する小林は、以下のようにも記す。


 彼の古学を貫いてゐたものは、徹底した一種の精神主義だつたと言つてよからう。むしろ、言つた方がいい。観念論とか、唯物論とかいふ現代語が、全く宣長には無縁であつた事を、現代の風潮のうちにあつて、しつかりと理解することは、決してやさしい事ではない(同上)。


 戦後歴史学の不幸は、以上に挙げた亀井や小林をはじめ、歴史認識における合理主義や理性過剰を戒める役割を担ったのが文学者たちであり、あるいは単にそれが文学者一流の直感にすぎないと受け取られたことにある。それは「三角帽子」なる匿名で服部達、遠藤周作村松剛という文学者三名が、唯物論や合理主義に抗し形而上の復権を意図して始めた実験とその挫折にうかがえる。昭和三十年、「メタフィジカルの旗の下のもとに」とのタイトルで『文学界』での連載が始まるが、その試みが、服部達の自殺という悲劇的な出来事があるも、わずか一年で終焉したことにもうかがえる。文学者たちによるささやかな抵抗を尻目に、そしてその火の粉を振り払いつつ、丸山流の理性による歴史認識が大手を振って闊歩していったことは、必ずしも戦後史学を豊かにしたとは言いがたい。
 (後篇に続く。)

女の点から男の線へ――「望郷」における男女の違い


 私は上京して六年目になるが、「望郷」というものを感じたことはない。都心にいても、田舎の祭りの時期になると血がわき立つような感覚になったり、夏になると地元の冷やし中華が食べたいと東京で似た味を探したりすることはあったが、それも時とともに薄れていった。
 友人の一人にもう十年以上故郷に帰っていない女性がいるが、「帰れないの?」と聞くと、「だって、バーゲンが終わってしまう!」という返事が返ってくるのだから、女性にとって故郷とは遠くにあると忘れてしまうものかもしれない。
 海外の駐在員夫人などはよく「婦人会」などをつくり、現地の日本人女性で集まって励まし合うことが多い。インタビューの記事などを読むとメンバーの個人情報はすべて明らかにされてプライバシーはなく、喫茶店などない土地では持ち寄りのケーキを毎日焼いていたなど、ずいぶんいき苦しい会だなと思う。しかし、女同士で集まることが唯一の楽しみだったという婦人の語りを聞くと、女性は郷土よりも変化する自分の居場所で群れることのできる女同士の方が精神安定には役立つようだ。
 映画「望郷」は、アフリカのアルジェ「カスバ」の町へ逃げ込んだフランス人犯罪者、ぺぺがフランス人旅行者の女、ギャビイを追って(女の背景にある祖国を求めて)安住の地から抜け出そうとする話だ。そんな中、ぺぺと同郷でカスバに暮らす年配の女性がちらりと登場している。彼女は、町へ出た夫が朝になっても帰ってこない時、「つらい時は楽しかった頃を思い出すのが一番だよ」と言って、歌手として活躍していた時の自分のレコードをかける。晴れやかに祖国への愛をうたうといった内容の歌詞で、陽気に歌う高音が流れ、やがて彼女もそれにあわせて歌うが、それはリズム感の失われた低くものがなしい歌声だった。彼女は泣きながら歌い、ぺぺがその姿をじっと見つめているというシーンなのだが、私はこれが女性の「望郷」になりきれない姿なのではないかと思う。警察に捕まることはない、犯罪者にとってこの上ない場所を手に入れたぺぺでも、「観光客」ではなくカスバに着いた早々に「帰りたい」ともらしているギャビイと出会い、今まで押し殺してきた郷愁が爆発してしまった。彼にはもう自分の命よりも、ギャビイとその香りの根源にしか自分の居場所を見出せない。一方、自分のレコードを聴いて涙を流す女性は、ぺぺのようにカスバを死にもの狂いで出ようなどとは考えない。いくらなつかしい郷国でも、今の苦しくても住みなれた生活の方が大事だからだ。彼女の故郷は思い出の中にあり、彼女は自分の変貌ぶりに涙しているのだ。
 私はこのシーンを見て、女には記念品が必要なのだなとあらためて感じた。記念品とは、写真でも指輪でも賞状でもいい。その物にこめられた思い出とその物を獲得できた当時の自分への評価が重要なのだ。女性は日々の出来事にいちいち立ち止まっていられない。そのために女性にとって言葉は、日々せき溜まっていく感情をはき出すための道具になっている。そうやって忘れていくために言葉を発しながら、日々を流れるように生きている女性でも、今に不安を抱き立ち止まる時がある。その時に必要なのが記念品で、女性はそれを人生の中で点のようにいくつも置いて、童話の「ヘンゼルとグレーテル」の白い石のごとくその点をたどって、自分の流動的な存在を肯定していく。記念品は女性にとって自分の人生をつなぐ点のような存在である。
 一方、男性は日々の出来事にいちいち立ち止まってしまう。そのために男性にとって言葉は忘れないよう残すための道具になっている。そうやって覚えていくために言葉を発しながら、その言葉は自分を形づくる道になっていく。言葉は男性にとって自分の人生を描く時の線のような存在ではないだろうか。記録として描かれた線は男性に自信をつけさせる。郷土の喪失や人の死に男性がいつまでも引きずられるのは、そこから自分の物語の線の勢いや方向に影響されるためではないか。女性は点さえあればいいので、点から点の間にどんなことがあっても気にとめない。次にどんな点を得られるかが重要なのである。だから郷土の喪失や人の死に、一時は悲しんでみせるが、それもやがて思い出になってしまう。
 もちろん、これから線を描きたがる女性も現れるだろうし、点をやたらに欲しがる男性だって出てくるだろう。私もその一人かもしれない。しかし、自分の性(さが)から完全に抜け出すことなどできない事なのだ。

戦争の光、平和の影――福田恒存の命題(その九)局地戦争もまた、れっきとした戦争である


 【命題】
 一挙に全人類を死滅せしめる原水爆は「悪魔」であつて、一挙に全家族を殺す爆弾は「悪魔」ではないのか(「現代の悪魔」)。


 健全な精神は、原水爆を「悪魔」と見る前にダイナマイトを「悪魔」と見、爆撃機を「悪魔」と見る前に旅客機を「悪魔」とみるであらう(「現代の悪魔」)。

                            
 「平和は分割可能である」ということの非情
 以前にも引用した坂本義和は、冷戦の終結により今後、仮に不幸にして戦争が起こっても、多くはそれが局地化されるだろうとの見通しを肯定的に述べる。その理由の第一は、米ソ間に戦争が起こる可能性が減じ、結果核兵器による全面戦争の危機が回避される状況が出現したこと。第二は、冷戦期であれば、一地域で起こった紛争に、米ソ、あるいはどちらかの陣営に属するある国が介入すれば、自動的に一方も何らかの形で介入せざるを得なかったのに対し、冷戦が終結した今そうしたことはなくなり、それぞれの国が自国の利害を冷徹に分析した上で、多くは選択的に地域紛争に介入するだろうからである。そうした理由により坂本は、次のように戦争が局地化される見通しを語る。「核戦争の危険の相対化は、世界戦争の危険の相対化であるから、その反面で、戦争の地域化あるいは局地化という形での、戦争や武力紛争の相対化をもたらした。もともと紛争そのものは、多くの場合、局地的発端から始まるものだが、これに対して国際社会が、紛争を局地化するという対応を示す傾向が顕著になったのが新しい特徴なのだ」(『相対化の時代』岩波新書、平成九年)。
 したがって、地球全体が戦場になるという状況に代わり、「局地戦争」が行われている場と、そうでないいわば「平和地域」とがしばしば併存する状況がこれからは出現するという見通しを述べた。そうした状況を受け坂本は、かつて戦間期ソ連の外相リトヴィノフが、国際連盟の創設に象徴されるように今後は、地域紛争に対し世界が何らかの形でコミットする時代に入り、その意味で「平和は分割不能(indivisible)である」と語った言葉を逆手にとり、今はそうした次第で「平和は分割可能(divisible)である」とした。したがって、これからは「戦争と平和との共存」を可能ならしめる世界になるだろうとし、次のように述べた。「こうした戦争・紛争の相対化による局地化の帰結として、平和と局地戦争との共存が、むしろ世界の常態にさえなってきた。戦争と平和との共存の日常化である」(坂本、同上書)。
 つまるところ坂本の以上の論は、冷戦構造が終結したことに伴い、これまでの核兵器による全面戦争の危機に代わり、今後は紛争が局地化されることを肯定的にとらえることに力点がおかれる。もっとも、局地戦争とはいえ、その当事者にとっては立派な戦争であることには違いはない。坂本の論は、伝染病患者から如何に健常者を隔離するかという論議に似、不幸にして局地紛争に至った地域から如何に平和な地域を隔離するかという、局地戦争の局外にある者の極めてエゴイスティックな論理であるように思われる。またそこに見え隠れするのは、全面戦争の恐怖を一旦経験した我々が、れっきとした戦争に他ならない局地戦争にさほど驚かなくなってしまったという感覚のマヒがある。実は、とりわけその後者を福田は憂えた。
 福田によれば、人々に「たかが局地戦争」という感覚を植えつけたことにこそ核兵器出現の恐ろしさがあるとし、シニカルにこう述べる。「原水爆はやはり『現代の悪魔』である。なぜなら人々はこの『大悪魔』の威力に恐れて、世に『悪魔』と呼びうるものはそれのみと思ひこみ、その他の『中悪魔』『小悪魔』の存在を何程のものとも思はなくなつてしまつたからである」(「現代の悪魔」)。
 そこで福田は、「大悪魔」にのみ焦点をあてた、反核運動を支える論拠の問題点を次のように指摘する。「『大悪魔』の威力を封じる運動が、ただそれだけで最高の美徳となり、世界戦争を避けるための努力が、局地戦争の犠牲を覆ひ隠す。この、いはば価値に対する無感覚と混乱こそ、『悪魔』との取引にほかならない」(「現代の悪魔」)。
 反核運動に見え隠れする悪しき「価値相対主義」。これこそが問題だとし、福田は言った。「全人類を殺せる核兵器が『悪魔』で、五人しか殺せぬダイナマイトが『悪魔』でないと考へる人は、すべての価値を数量で割切るといふ最も現代的な『悪魔』の思想に囚れてゐる事を反省してみるがよい」(「現代の悪魔」)。


 「万物の尺度は人間である」
 「万物の尺度は人間である」とは、古代ギリシャソフィストプロタゴラスの有名な言葉であるが、ほかに彼はこうも述べる。「神々については、彼らが存在するということも、存在しないということも、姿形がどのようであるかということも、私は知ることができない。それというのも、それを知ることを妨げるものが多いからだ。すなわち、(このような主題には)確実性というものがないし、人間の生は短いからなのだ」(「断片」四、廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、平成九年)。
 つまるところ以上の彼の言は、所詮、価値には絶対的なものはなく、それらは相対的に存在するにすぎないといういわば「価値相対主義」の表明である。こうしたソフィストたちを本格的な嚆矢とし、現代に至るまで価値相対主義哲学史上の重要な一翼を担ってきた。現代においてもその亡霊はこの世を闊歩する。価値相対主義という観点から福田は反核運動を批判したが、その世界的指導者であるラッセルもまたこの立場に立つことで知られる。
 ラッセルは、価値なるものは所詮、「かき」の好悪と同様だとしてこう述べる。「もし一人の人が『かきは旨い』と言い、他の人が『それは不味いと思う』と言うとすると、われわれは、そこには論議すべき何ものもないと認める。かきなどよりもっと高尚と思われる事柄を取扱う時、とてもそのようには考えられないが、今取上げている理論は、価値に関するすべての相違はこのようなものだと主張しているのである。このような見解がとられる主な原因は、どちらかが本質的な価値をもつことを証明する論証を何も見出すことができないということにある」(津田元一郎訳『宗教から科学へ』荒地出版社、昭和四〇年)。
 同じ本の別のところでも、価値が所詮は相対的なるものに過ぎないという所説を次のように記す。「われわれはこれが善であるとか、あれは善であるとかいう時、何を意味しているのか明確にしようとすると、甚だしい困難に巻きこまれる。快楽が善であるというベンサムの信条は猛烈な反対をまき起した。そして、豚の哲学だといわれた。だが、かれも、かれの反対者達も、何らの根拠を提出することが出来なかった。……これが窮極的善であるか、あれが窮極的善であるかということに関しては、どちらにも立証がない。各論争者は自身の感情に訴え、相手に同じような感情を呼び起すような修辞的術策を用いることができるだけである」(ラッセル、同上書)。
 他に、価値相対主義の観点からの平和論として、ドイツの法哲学者ラートブルフのそれがある。ラッセルと同世代の彼は、価値相対主義の観点から、価値観、世界観の対立を、とりわけ「正義」という観点から一義的に解決することの否を唱えた。価値観、世界観の対立を解決しようとするからこそ「正義」の名のもとに戦争が起こるのであり、したがって戦争の淵源をなす「正義」を後衛に退かせ、それぞれの価値観、世界観を尊重した上で、何よりも、平和の維持、確保こそが大事だとし、それを担保するものとしての法的安定性の重要なるゆえんを述べた。彼は、「正義は法の第二の偉大なる任務であるのに対し、その第一の任務は法的安定性であり、平和である」とした上で、こう述べた。「法的見解に対する争いに、法律をもって結末が与えられ、また個々の法律事件に対する争いに、法的に有効なる判決をもって結末が与えられるということが正義にかないかつ目的にかなった結末が与えられることよりも重要であり、法秩序の存在することが、その法秩序の正義よりも重要である」(鈴木敬夫『法哲学の基礎――ラートブルッフ法哲学』成文堂、平成一四年)。


 「クレタ人はうそつき」――自己言及のパラドックス
 「クレタ人はいつもうそつき」とクレタ人自身が言ったと、『新約聖書』の「テトスへの手紙」にある。「自己言及のパラドックス」を説明するのに、しばしば引き合いに出される言葉である。ここでクレタ人自身が、「クレタ人はうそつき」と言及しているが、クレタ人がうそつきだとすれば、「クレタ人はうそつき」と言うこともうそになってしまう。という訳で「クレタ人は正直者」ということになるが、そうすれば「クレタ人はうそつき」と言ったそのクレタ人は、「クレタ人は正直者」であるはずなのにうそを言ったことになり、ここに自己矛盾が生じる。対象だけではなく、自己のことをも含めて言及しようとすると発生するパラドックスゆえに、「自己言及のパラドックス」と呼ばれる。
 価値相対主義もまた、自身のことを含めれば同じような自己矛盾に陥るとしてこのパラドックスのスキームを援用し批判を加えうる。「クレタ人」を「価値相対主義者」に置き換える。曰く、「価値相対主義者は言う。『すべての価値は相対的なものにすぎない』」。もしその命題が正しいのであれば、価値相対主義の主張そのものもまた絶対的ではないことを意味するという自己矛盾に陥る。価値相対主義には、それを主張すればするほど、いよいよ自己の主張の基盤を失うという自家撞着が延々とつきまとう。しばしば相対主義ニヒリズムと誹られるゆえんである。
 ところで、ラッセルはこのパラドックスの回避を期し、論理学の観点から結果、自己言及を禁じることこそがその道だとした。「悪循環原理」として知られる原理――ある集まりが、その全体によってしか定義できない要素を含む場合、その集まりは全体を持たない――の定式化である。自己言及を禁じたこの悪循環原理により、「クレタ人はいつもうそつき」のスキームから、価値相対主義を批判することは不可能になる。無論、ラッセルは数学者、論理学者としての立場からこの原理の定式化を試みたのであろうが、それは結果的に、価値相対主義者としての自らの立場をも救う。
 ただ、ラッセルが如何に自己言及を禁じようと、閉じられた論理学の世界内の話ならともかく、実際問題として価値相対主義は、どうしても悪としかならない価値でも等しく尊重しようという立場ゆえ、その悪を批判する基盤を失う。そのことにやがてラッセルも気がつく。『西洋の知恵』の中でラッセルは、その心情を次のように正直に吐露した。
 「仲間に理不尽な残虐を加えることが悪いのはなぜか、その科学的理由は述べるわけにいかない。私には悪いことのように見えるし、この見かたを懐いている向きが相当に広いかと私は考える。残虐が悪い事であるのはなぜかについては、私には、どうも十分な理由が挙げられそうもない。これはむずかしい問題で、決着をつけるのには時間がかかる」(東宮隆訳『西洋の知恵』下巻、社会思想社、昭和四三年)。
 こう聞かされると、反核運動に際して座り込みまでし、果ては投獄までされるほどに核兵器を悪とみなした彼の確信は、奈辺にあったのかと思わざるを得ない。


 相対主義の泥沼
 社会評論家として福田が本格的に論壇に登場するきっかけとなった論文「平和論にたいする疑問」(『中央公論』昭和二九年一二月号)で、福田が平和論者に投げかけた批判の一つは、基地における学童の教育問題であれ、軍用機の騒音問題であれ、そのこと自体を問題にするのではなく、それを反米や安保反対というところにまで話を拡大し論じるその論法にあった。往々にして平和論者にはそうした論法の飛躍が多く、逆にいえば「現地解決主義」で臨めないゆえんを福田は、彼らが依っているところの価値相対主義の弊害から論じた。
 例えば、基地における学童の教育問題なら、その問題自体の是非を計る「絶対的な」尺度というものがあるはずだが、平和論者はえてしてそういう尺度を持ち合わせていないゆえ、いきおいそうした問題の是非が単に「現象相互間の関係」に委ねられざるを得ない点を指摘する。この点に関して福田は言う。「Aといふ一つの社会悪を除去するためには、Bをかたづけなければならない、それにはCを、さらにDを、そんなふうに一廻転して、Zまで来たあげく、やはりAをさきに、といふことにもなりかねない。そこで『ええい、面倒だ、暴力革命をやつちまへ』といふ声も起る。が、そのあともやはりおなじことです。A、B、C、D…Z→Aがくりかへされる」(「個人と社会」)。
 福田によれば、価値相対主義の弊害のまず一つは、ある物事や問題の価値が、単にそれら相互の関係でしか決まらないので、それが非常に流動的である点にある。福田は言う。「相対主義にとらへられた現象といふものは、たえず流動してをります。流動してゐるものしか見えないのが相対主義です」(「個人と社会」)。
 さらに関係相互の価値が往々にして質の良悪ではなく、単に量の多寡によって計られがちであり、その点にも問題があるとする。その点を福田は、「それは量の世界しか見えない。質の世界とは無関係です」(「個人と社会」)となした。流動的であるという点。さらには質よりも量で計られる点。平和論者の方法論の根底にある価値相対主義は、そういうあやふやなものである点を福田は指摘した。
 いずれにせよ、価値相対主義は福田にとっては唾棄すべきものであり、何としても克服すべき思想上の課題であった。別のところでもこう記す。「現在の私たちは単純な相対主義の泥沼のなかにゐる。なほ悪いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていのひとが相対主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戦後の混乱のほとんどすべてが、この平板な相対主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。私自身、ものを考へ、判断するばあひ、これにはまつたく手を焼いてをります。それについて詳しく書く余裕はありませんが、超自然の絶対者といふ観念のないところでは、どんな思想も主張も、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズムにすぎないといふことを自覚していただきたい」(「日本および日本人」)。
 「全世界を救ふやうな看板」、すなわち反核運動はその赴くところ、通常兵器にて行われる地域紛争を「局地戦争」とかたづけ、それに関わる者たちをある意味で突き放すという極めてエゴイスティックな感覚を植えつけた。なるほど福田の言う通りではある。

土地と人間(後半)「よかよか」と「しゃーないなぁ」


 前号では、筆者が九州に対して特殊な思い入れを抱いていることを述べた。そして、その思い入れの内実を述べるためにまず、筆者が関西で生まれ育ち、現在東京に居ることを述べた。その中で、「大阪のおばちゃん」という抽象概念を引き合いに、東京に各種のコミュニティがあるものの、「地域」に根ざした伝統的コミュニティが希薄であることを指摘した。一方で、関西では「大阪のおばちゃん」なる存在を誰しもが「是認」するところに現れているように、土地に根ざした地域コミュニティが存在していることを述べた。ここに言う、「大阪のおばちゃん」とは、前号の説明を再掲すると、次のような存在である。“概して恐ろしく傲慢で、身勝手な存在である。典型的には、電車の中では傍若無人に振る舞い、「着座」するためには周りを顧みずに驚くほど素早く座席に移動する。他者の状況など全く意に介さず、誰にでもやたらと話しかけ、干渉し、一人でけたたましく笑う。そういった利己的行動を繰り返す存在。”
 筆者には、こうした、小さな「悪」をどう取り扱うのかが、その地域コミュニティのあり方を考える上で、重要な鍵を握っているように思えた。なぜなら、こうした小さな一例に、そのコミュニティが、善悪の問題に対してどのように対峙しているのかが現れているからである。この点から考えれば、関西は、コミュニティと社交と地域的一体感を保ってはいるものの、人々の内にある悪をそのままの形で是認する傾きが強いように思えるのである。これでは、地域コミュニティを保持したとしても、善きものが駆逐されてしまいかねないのであり、地域コミュニティが存在することの意味そのものが失われかねない危惧もあるように思える。だとするなら、コミュニティを保持しつつも、「悪」を排し「義」を通す方途があるとするなら、それが最も望ましいに違いない。このような土地の具体的な姿を、筆者は、「九州」に見たのであった。
 以上が、前号で述べた概略である。以下、なぜ、「九州」にそのような可能性を感じたのかについて、述べることとしたい。


 たとえば、関西においては、「大阪のおばちゃん」的な存在を「しゃーないなぁ」と言って是認する。しかし、おそらくは、(塾生通信八月号の平坂君の原稿を読む限り)九州では、「よかよか」と言って是認するのではないかと思う。この二つの言葉は、「是認」するという点では、共通しているものの、「しゃーないなぁ」という言葉には、明らかに「嫌悪の念」が含まれている。しかし、「よかよか」には、そうした感情が含まれているようには思えない。
 「しゃーないなぁ」と、是認されながらも、一部に「嫌悪の念」を表明されつづければ、「別にかまへんやん」と、おばちゃん本人が開き直らざるを得ないようにも思う。そして、「大阪のおばちゃん」は、「しゃーないなぁ」という言葉によって是認されつつ嫌悪の念を示される度に、「大阪のおばちゃんらしさ」をますます増長させていくように思う。おそらくは、「大阪のおばちゃん」は、そういう構造を経て、大阪周辺の地であちこちで育てられているのではないかと思う。一方、彼女が「よかよか」と毎日言われ続ければ、最初は、増長するのかもしれないが、その内どこかで「羞恥」の念を催すのではないだろうかとも思う。これはなぜなら、「よかよか」と言っている本人も、それを聞いている人々も、そして、それを言われている「大阪のおばちゃん」本人も、たとえば電車の中で着座するために浅ましく振る舞う行為が決してほめられた行為ではないことを内心では理解しているからである。いわば、「よかよか」は「しゃーないなぁ」よりも、その場において許すことを通じて、次回に適切に振る舞う可能性が幾分なりとも向上させる効果を持つのではないかと思えるのである(ただし無論、体力の劣る女性が先に座るのが当然のことでもあるのだから、「よかよか」と言われて、おばちゃんが座り続けて居ても一向に問題はない。ただし、おばちゃん同士が座席を奪い合ったり、場合によってはおばちゃんが品の良い老婆よりも先に着座しようとするのは、やはり、いかがなものかといっても差し使えないのではないかと思う)。
 さて、「よかよか」という寛大な態度は、一面においてある種のリスク(危険)をはらんだ態度であることも事実である。なぜなら、「よかよか」といって許したが故に、増長してさらなる悪事が生じてしまう危険性も存在するからである。たとえば、「大阪のおばちゃん」の行為を見過ごしたが故に、本来なら止めることができたはずの、彼女によるより大きな迷惑が他者に及んでしまう、という場合もあるだろう。そうした場合、「しゃーない」と言った人間は「ほれ見てみぃ」と言って、その本人に責任の全てを、他者に転嫁して済ますこともできるが、「よかよか」と言った人間は、「よかよか」と許容したことに対する責任をとるべく、自らでその後始末をする傾きが大きいようにも思える。
 そうであれば、「大阪のおばちゃん」は、ひょっとすると、その「よかよか」と言ってのけ、そして最終的に後始末をしたその男に対して、「感謝と敬意」をその内抱くことも十分にあり得るのではないかとも思えてくる。自分を許したにも関わらず、自分はその期待を裏切ってさらなる悪事をはたらいてしまった、にも関わらず、その後始末をとる懐の深さを、どこかで感じざるを得ないのではないかと思うのである。ここに、「感謝と敬意」なる概念は、「大阪のおばちゃん」なる抽象概念が主観的に持つことがほぼ想像できないような概念である。言うならば、「大阪のおばちゃん」が「大阪のおばちゃん」たり得るのは、他者に感謝や敬意を抱かないが故である、とも言えるのである。
 ところが、「ほれ見てみぃ」と言われれば、「大阪のおばちゃん」は、「やかましわぁ」と反発し、より一層「大阪のおばちゃん」らしくなっていくように思える。すなわち、「大阪のおばちゃん」が「大阪のおばちゃん」たり得るのは、「大阪のおばちゃん」の中に含まれる「悪行」(多くの場合他愛もないものではあるが)に対して、周りの人々が「是認」と「嫌悪」の念を含む「しゃーないなぁ」という気持ちを抱いていることが前提なのではないかと思えるのである。ところが、九州において「よかよか」と、「是認」と「今後の期待」をかける言葉をかけられ続けていれば、「大阪のおばちゃん」の中にある「悪」が徐々に浄化されていき、あげくに、「大阪のおばちゃん」は「大阪のおばちゃん」では無くなるのではないかとすら思えるのである。
 これは何とも素晴らしい方法ではないかと思う。いうまでもなく、東京のように、コミュニティを断絶した上で、悪をあっさりと切り捨てることをもってして悪を浄化していくというシステムとは根本的に異なっている。そればかりではなく、関西のように、コミュニティを保持するが故に、人々の中にある悪を浄化せずにそのまま許容してしまう社会とも異なっている。すなわち、九州とは、誰しもが悪を持つという事を前提としつつ、万人をコミュニティの中に取り込み、その悪がその内浄化するであろうことを信頼することを通じて、その悪が浄化されていくことを期待する社会なのではないかと思えるのである。しかも、是認することでかえってその悪による被害が甚大なものとなったのなら、その被害の後始末を何らかの形で、是認した本人が進んで行おうとするのである――。


 筆者は、九州にしばしば赴くことがあるのだが、住んだ経験はない。それ故、以上に記した内容は全て、「全くの想像」にしか過ぎない。そして、全ての九州の人間が上記のように振る舞い、全ての関西や東京の人間が上記のように振る舞うのかと言えば決してそうではないとも思う。しかしそれでもなお、九州の「よかよか」という言葉の響き、関西の「しゃーないなぁ」という言葉の響きには、それぞれの土地の社会と風土のあり方が色濃く表れているのではないかと思えるのである。
 しかも、例えば伝え聞く西郷隆盛とは、まさに、悪そのものに対して憤怒の念をいただきながらも、悪をなした「人」を「よかよか」と許し、その人に巣くう悪が将来において浄化することを期待し、そしてそれにも関わらず、許し難い悪行がなされたならばその始末を自らつけようとした男であったように思う。内村鑑三が「代表的日本人」の第一番目の人物として著し、そして多くの日本人が愛し続けた西郷は、まさに、そうした人物なのであった。そして、西郷隆盛のみならず、筆者のわずかな個人的な経験の中でも、そうしたたたずまいを、九州の人の内に頻繁に見るのである。
 中には、なぜ、土地と人物がそれほどに関連するのかと疑問を持つ人もいるのかもしれない。しかし、本稿の前半でも触れたように、コミュニティと共に生きるということが、人間の基本的な条件なのである。その意味において、人間は「個人」(インディビドゥアル)という明確な輪郭を持つような存在では決してない。人間とは、半身において個人の顔を持ちつつも、その残りの半身はその地のコミュニティに溶解しつつ繋がっている存在なのである。それはちょうど竹林が無数の竹の林のように見えて、実のところ根では全て繋がった一つの植物であるようなものである。そして、地縁に根ざすことではじめてコミュニティが安定を得、独特の風土を湛えることができるのだとしたら、一人一人の人間のたたずまいはその地のたたずまいそのものとならざるを得ないのである。新渡戸稲造が「武士道」の中で、武士道というものを日本の風土に生えた草木に例えたように、我々一人一人は、それぞれの地に生えた草木なのである。その草木が、その地の風土と無縁である事など、あり得ないのである。


 筆者は、関西で生まれ育った人間として、九州という土地に対して他者として対面する。そして他者として、以上のような九州という地に対して、ある種の思い入れを抱いている。しかし、その反面において、同じ日本に生まれ育った人間として、あるいは、この日本という風土の中の一本の草木として、今の日本を善かれ悪しかれ共に形作っている存在でもある。それは無論、筆者にのみ、当てはまることなのではない。誰しもが、この日本の地に根ざす草木である以上は、九州という地に根ざしたあまたの草木と共に、それぞれの地でそれぞれの役割を担いながらこの日本を形作っているのである。そうであればこそ、九州という地は、日本のどの地からしても、決してよそよそしい異国なのではない。そしてそれ故に、誰しもが、多かれ少なかれ九州で営まれているコミュニティのあり方を肌で理解することができるに違いないのである。だからこそ、内村鑑三は、先にも引用したように、九州男児たる西郷隆盛を、「代表的日本人」の第一人目の人物として挙げたのである。
 言うまでもなく、健全なる日本を目指しているとするなら、その地に生える一つ一つの草木そのものの健全さの増進を目指すことが何よりも先決である。その時、コミュニティ無き社会では、草木は根を張れず脆弱にならざるを得ない。ただし、コミュニティがあったとしても悪しきものを浄化しようとせぬ社会では、いくら草木に根が生えたとしても健全なる草木が育っていくことは難しい。そうであればこそ、九州の地で営まれているであろうようなコミュニティのあり方に、健全なる日本を目指すヒントが隠されているように思えるのである。そしてそのあり方は、先にも指摘したように、「日本人」であるのなら、必ずや了解可能なものに違いない。無論、学ぶべきものが九州の地にのみ存在するということをここで主張しているのではない。しかしながら、少なくとも、健全なる日本を目指している日本に根を張る「草木」であるのなら、一度くらいは、九州の「草木」のあり方に触れてみるのも決して無駄なこととはならないであろうとも、思えるのである。

 山路愛山研究(その一) 共同体の思想家・山路愛山


 これから機会があるごとに、山路愛山の思想と、明治思想について書いていきたいと思う。


 一 国家は死者と子孫を含めた悠久の生命体だと述べた柳田國男
 最近は、格差社会という言葉をよく耳にする。主に、経済的な豊かさ、貧しさといったように貧富の固定化について述べたものであろうが、これは一種の共同体の危機であるのは、紛れもない事実である。格差社会の到来といったテーマは、平等を建前にしてきた戦後社会ではあまり問題になってこなかったが、平成改革においては、戦後長らく続いた〈結果の平等〉が捨てられて、自己責任を重んじる〈機会の平等〉の社会になった。すると、どうしても最初から力のある者が、どんどん自己の勢力を拡大していくのは自然の流れであり、弱き者は半永久的に強き者に食われ続ける社会となる。建前として、機会はみんなに平等に開かれているとはいえ、それは幻想であり、簡単に言えば、市場により近くそして金を持っている者が、市場に遠い人間、金が少ししかない者よりも現実的には何倍も有利である。
 今日の格差社会の到来は、こうした背景から来ている。弱き者、日雇い労働者的なワーキングプアの若者が、一度、ネットカフェ難民になってしまえば、そういう環境から抜け出ることは容易でない。「そんな境遇に陥ったのは、君たちの、自己責任だよ」といって彼らを見捨てる社会となった。彼らからすれば、当然、家庭を持つなんてことは、遠い夢にすぎない。国家にとって、また人間社会にとって最も基本的な組織体である家族が破壊されている現状は、まことに恐ろしい事態である。これを共同体の危機である、と捉えないほうがおかしい。共同体社会を壊して、個人主義的で、唯物主義的な社会を招来したのが、平成改革の本質であろう。
 では一体、国家の本質とはそもそも何なのか、それについて明治三五年から三六年、中央大学の講義において、農政にたずさわっていた柳田國男は、以下のように述べている。


 「国家の行為即ち政策にして其結果を甲者の注文に合し乙者の注文に背くへき場合は多くなれり、或は此の場合には多数者の利益とする所を以て又国の利益として可なりというものあれと、其果して国民多数の希望に合するや否やを知ることは難し、又少数者の利益を無視するも謂れなし、加之(しかのみならず)国家は現在生活する国民のみを以て構成すとは云い難し、死し去りたる我々の祖先も国民なり、其希望も容れさるへからす、又国家は永遠のものなれは、将来生れ出つへき我々の子孫も国民なり、其利益も保護せさるへからす。要するに所謂輿論なるものか若し各人自己の利害より打算する説ならは、政策は必すしも其赴く所に従ふを要せす、各人の利害相反し、相容れすと見たる場合には、別に自ら其手段の可否を決すへき標準を立てさるへからす、是れ経済政策の学問か一箇独立したる地位を有し得へき所以にして(以下略)」(注:原文はカタカナ漢字交じりであるが、便宜上直した)。
 要するに、国民とは、生きている者だけではなく、死者、子孫の総合だとするものである。国家とは、生命体であって、この三者による永続的存在だ、ということであり、その帰結として、現在の政治決定は、生きている者だけの特定利害の標準で、勘案するのは間違いであるということだ。
 彼はまた、「未来に生息すべき国家の全部も亦他人と称すべきものにして、現在の人民が其権利を行なうによりて損害を受くることを拒み得るものなり」(全て『近代日本政治思想の諸相』橋川文三より)といった発言もしており、生きている者による現在の政治行為により、将来へ継承されていく共同体に深刻な被害を与えかねない暴政は、掣肘しなくてはならないといった理想であろう。ここでは、あたかも、生きている者より、観念上の子孫といった存在のほうが重いといった如き感想を持つ。柳田の根底にある情念は、近代化の趨勢に抵抗した辺境の民の文化や信仰といったものが存在したから、共同体の本質が、近代主義という名のもとに都市化された空間や唯物主義、刹那的な生の感覚により脅かされている現実を座視できなかった。そういった背景がこうした発言にあったようである。
 一連の柳田発言に注目した橋川文三は、あたかも、エドマンド・バークの政治思想を想起させるものであると述べ、柳田農政学は「一国人生の総体の幸福」を追求する立場だ、と評している。このような、見事な柳田の発言をすくい上げて、彼の政治思想を高く評価する橋川の姿勢もまた流石であった。


 二 近代日本の国体論
 柳田の言葉で分かることは、明治という時代には、我々が想像し得ないほど遥かに深刻に、共同体とは何かが問われていた、主要な関心事となっていたのである。近代主義という、民主主義化、資本主義化、都市化、といった現象と無縁ではない。したがって、柳田が活躍した明治における国体論について考えることが、今日の我々が研究すべき共同体論の参考になるのではないかと思われる。「全ての真の歴史は現代史」(クローチェ)なのであり、現在の我々の興味に関わらないようでは、一体何を歴史から学ぶのか、といった問題意識不在の歴史学に堕落する。歴史は、当然過去のことでもあるから、その全てを現在の問題意識と一緒にして捉えることは不可能であるのは承知であるが。
 国体とは国の無形の形である。建国以来連綿と保守されてきた価値観であり、これからも我々が継承していかねばならぬ理念でもある。そうなると、伝統ある万世一系の皇室を中心とする世界が、国体論の中核となってきたのはいうまでもない。しかしながら、ここで注意しなければならないのは、近代以前の国体の意味は今日我々が考えているようなものではなく、せいぜい、国の組織や形態、国家の対外的体面といった意味しかなかったものであったが、近代になりいきなり変容して、天皇を中心とした民族固有の価値観に根ざす特殊性といった概念になったことであろう。会沢正志斎(天明二年〜文久三年〔一七八二〜一八六三〕)の『新論』は、西洋列強の日本侵略の危機を説き、尊皇攘夷の志士に大きな影響を与えた、国体論の先駆けといえるが、ここで顕著なように、対外的脅威が迫っているといった政治状況の認識と、それに比例して浮上する日本民族といった観念、またそれらの帰結として民族の力の結集といったことは、ワンセットであった。したがって、国体論の始まりは、共同体論そのものであった、と考えなければならない。
 共同体は群れを作る動物である人間の歴史とともにあるが、個々の小さな社会組織といったものではなく、近代における、国民国家という「大きな物語」を中心とした共同体では、どうしてもバラバラの個人を接着する接着剤のようなものが必要で、そこで普遍性を持った、国体論が要請されるということになる。日本の場合は、古代より勤皇思想が伏流する通奏低音のように存在したため、近代国家の創出が非常にスムーズにいったのである。私はこうした思想を用意した江戸時代こそが、近代日本の始まりと考えている。わが国には、もともと国民を統一せしめる、原理が古代から存在した。近代化と、皇室の存在は無縁ではない。
 問題なのは、皇室の存在という大前提は、国体論者一般に共通するものであるが、そこから先の解釈なのである。キリストは神なのか、人なのか、といった西洋の神学論争みたいなものか。国体論の中から、国民の社会構造をどのように把握するか、国民と皇室の関係はどうなのか、といった解釈の差異が論者により当然出てくるのは避けられない。国体についての解釈論争が、加藤弘之井上哲次郎内村鑑三山路愛山、などが中心となって、明治に起こっている。そこで交わされた議論の印象では、臣民が皇室に絶対的な崇拝を誓うべしといった国体論か、国民が皇室を崇めながらも、皇室も民を思い続けた歴史があると強調した国体論があるようだ。前者は東京帝国大学教授の井上哲次郎安政二年〜昭和一九年〔一八五五〜一九四四〕)などが代表するといってよいし、後者がこれから紹介する山路愛山の立場であったといえよう。


 三 山路愛山は、皇室と平民の関係に平衡を持たせようとした思想家
 国家の統一原理を重んずるあまり、盲目的に、絶対的な天皇崇拝を行う者がいた。そこで、皇室と平民の関係は、皇室が一方的に存在するのではない、平民と皇室は一心同体なのだ、といって両者の間にバランスをとった思想家が、山路愛山(元治元年〜大正六年〔一八六四〜一九一七〕)であった。彼は在野の史論史家にして、国家社会主義思想を打ち立てた思想家であった。史論史家とは、歴史をもっぱら実践的関心に基づいて研究しようとする傾向が強い者をいう。彼の日本史研究の実践的関心とは、国家社会主義思想の構築に収斂するものであった。愛山は、日本歴史の総体を、古代から現代までに渡って俯瞰し、実に多くの著作を残した。生前に残した著作は、五〇冊以上あるといわれる。全集は出版されていないが、筑摩書房から『山路愛山集』が出ている。
 彼の、「史学の能事は古を以て今を論じ、遠きを以て近きを語るに在るのみ」(「史学論」)という信念は、先のクローチェの言葉とも重なるところがあり、過去を現在と同一視する傾向は、未来の日本はこうあるべきだ、といった理想と深く結びついていた。彼の行った、日本歴史の通観作業は、日本民族の不変のアイデンティティーの考察でもあり、日本的な国家及び、共同体の法則の発見でもあった。どのように歴史は動いてきたのか、日本民族の社会構造は何か、日本の歴史を動かす主体とは何か、といった問題意識が常に彼の史論には流れていた。
 彼は明治三八年に、『国家社会主義梗概』において、独創的な国家論を世に問うた。彼によると、社会には〈国家〉と〈紳士閥〉と〈平民級〉が存在するという。これを社会三元論と呼ぶ。そのうえで、〈労働者〉と〈国家と紳士閥〉の合体した二級しか存在しない社会主義思想を徹底的に批判した。搾取と被搾取の関係しかない社会は、社会主義者による歴史性に根付かない理論であり、実際には存在したことがないとした。日本史は、国家と紳士閥と平民が争いや調和、共同生活を実現してきた歴史を有するという。まさしく、日本史研究から来たその結論が、国家社会主義思想なのである。
 山路は、紳士閥が様々な面で平民級の存在を圧迫するならば、「富豪の兼併を抑ふべし」であって、国家は、平民の側に立って彼らの利益を守らねばならないと述べた。国家は古代から連綿と続く日本歴史の法則、すなわち「国体」を内包していなければならないということだ。これが、彼の考える、国家社会主義政策なのである。
 愛山によれば、日本の国体は一大家族である、「共同生活は日本王道の根本義」なのだ。その宗主は皇室であり、「皇室は人民の父母」という。「百姓飢饉に苦しみ加ふるに疾疫を以ってし死亡数多なり。朕これを念ふ毎に情傷惻に深し」といった天応元年の詔など、数多くの古代の詔に示されている通り、民を思う姿が皇室の本質であるとした。類似の家族国家論は明治から敗戦まで存在したが(石田雄や松本三之介の研究に詳しい)、山路の場合は、どこまでも皇室と平民(すなわち国民)がいた。平民なくして、皇室も国家もないのである。愛山における「平民」観念が、柳田の指摘から外れて、生きている者だけを指すのでないのは、いうまでもない。それは自由主義や、個人主義を徹底的に批判して(『現代金権史』など)、現在の個人の利益にうつつを抜かす人間を批判していることからも明らかである。
 今の、保守派と称する者たちが、愛国と叫んで、国民の生活に一向鈍感な傾向を、山路愛山の目には、どのように映るのであろうか。