女の点から男の線へ――「望郷」における男女の違い


 私は上京して六年目になるが、「望郷」というものを感じたことはない。都心にいても、田舎の祭りの時期になると血がわき立つような感覚になったり、夏になると地元の冷やし中華が食べたいと東京で似た味を探したりすることはあったが、それも時とともに薄れていった。
 友人の一人にもう十年以上故郷に帰っていない女性がいるが、「帰れないの?」と聞くと、「だって、バーゲンが終わってしまう!」という返事が返ってくるのだから、女性にとって故郷とは遠くにあると忘れてしまうものかもしれない。
 海外の駐在員夫人などはよく「婦人会」などをつくり、現地の日本人女性で集まって励まし合うことが多い。インタビューの記事などを読むとメンバーの個人情報はすべて明らかにされてプライバシーはなく、喫茶店などない土地では持ち寄りのケーキを毎日焼いていたなど、ずいぶんいき苦しい会だなと思う。しかし、女同士で集まることが唯一の楽しみだったという婦人の語りを聞くと、女性は郷土よりも変化する自分の居場所で群れることのできる女同士の方が精神安定には役立つようだ。
 映画「望郷」は、アフリカのアルジェ「カスバ」の町へ逃げ込んだフランス人犯罪者、ぺぺがフランス人旅行者の女、ギャビイを追って(女の背景にある祖国を求めて)安住の地から抜け出そうとする話だ。そんな中、ぺぺと同郷でカスバに暮らす年配の女性がちらりと登場している。彼女は、町へ出た夫が朝になっても帰ってこない時、「つらい時は楽しかった頃を思い出すのが一番だよ」と言って、歌手として活躍していた時の自分のレコードをかける。晴れやかに祖国への愛をうたうといった内容の歌詞で、陽気に歌う高音が流れ、やがて彼女もそれにあわせて歌うが、それはリズム感の失われた低くものがなしい歌声だった。彼女は泣きながら歌い、ぺぺがその姿をじっと見つめているというシーンなのだが、私はこれが女性の「望郷」になりきれない姿なのではないかと思う。警察に捕まることはない、犯罪者にとってこの上ない場所を手に入れたぺぺでも、「観光客」ではなくカスバに着いた早々に「帰りたい」ともらしているギャビイと出会い、今まで押し殺してきた郷愁が爆発してしまった。彼にはもう自分の命よりも、ギャビイとその香りの根源にしか自分の居場所を見出せない。一方、自分のレコードを聴いて涙を流す女性は、ぺぺのようにカスバを死にもの狂いで出ようなどとは考えない。いくらなつかしい郷国でも、今の苦しくても住みなれた生活の方が大事だからだ。彼女の故郷は思い出の中にあり、彼女は自分の変貌ぶりに涙しているのだ。
 私はこのシーンを見て、女には記念品が必要なのだなとあらためて感じた。記念品とは、写真でも指輪でも賞状でもいい。その物にこめられた思い出とその物を獲得できた当時の自分への評価が重要なのだ。女性は日々の出来事にいちいち立ち止まっていられない。そのために女性にとって言葉は、日々せき溜まっていく感情をはき出すための道具になっている。そうやって忘れていくために言葉を発しながら、日々を流れるように生きている女性でも、今に不安を抱き立ち止まる時がある。その時に必要なのが記念品で、女性はそれを人生の中で点のようにいくつも置いて、童話の「ヘンゼルとグレーテル」の白い石のごとくその点をたどって、自分の流動的な存在を肯定していく。記念品は女性にとって自分の人生をつなぐ点のような存在である。
 一方、男性は日々の出来事にいちいち立ち止まってしまう。そのために男性にとって言葉は忘れないよう残すための道具になっている。そうやって覚えていくために言葉を発しながら、その言葉は自分を形づくる道になっていく。言葉は男性にとって自分の人生を描く時の線のような存在ではないだろうか。記録として描かれた線は男性に自信をつけさせる。郷土の喪失や人の死に男性がいつまでも引きずられるのは、そこから自分の物語の線の勢いや方向に影響されるためではないか。女性は点さえあればいいので、点から点の間にどんなことがあっても気にとめない。次にどんな点を得られるかが重要なのである。だから郷土の喪失や人の死に、一時は悲しんでみせるが、それもやがて思い出になってしまう。
 もちろん、これから線を描きたがる女性も現れるだろうし、点をやたらに欲しがる男性だって出てくるだろう。私もその一人かもしれない。しかし、自分の性(さが)から完全に抜け出すことなどできない事なのだ。