戦後史学における歴史否定の問題とその相克(前篇)


 一 ヘーゲルか、ディルタイか?
 「あらゆる歴史は、過去である」
 「あらゆる歴史は、現代史である」
 ここに二つの文章を設定してみた。前者は、広辞苑による歴史の定義、すなわち歴史とは、「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」から必然的に導かれる文辞である。
 後者は、イタリアの歴史家クローチェによる、つとに知られる命題である。ところで、我々が通常に持つ語感からすれば、当然歴史とは過去のものであり、その意味では前者の文辞に断然説得される。しかし、歴史とは単純に過去に属するものであり、現在とは無縁のものであると、そう簡単には切り離し得ない。その意味で、後者のクローチェの命題にこそ、歴史というものの真髄があるのは言うまでもない。
 「あらゆる歴史は、過去である」との文辞は、歴史哲学の領域でいえば、ヘーゲルの拠って立つ立場から必然的に導かれるものである。ヘーゲルの歴史哲学は、歴史を理性や精神といった高みからとらえる。いや、むしろ歴史は、理性や精神がその未熟な段階から理想的なそれへと自己発展を遂げる場の意味しか与えられず、その自己発展の過程を弁証するものに他ならない。したがって、理性や精神の自己発展の過程である歴史は、何よりも進歩の歴史であり、過去よりは現在、現在よりは未来のあり方が優れたものと認識される。逆に過去は、現在、未来という高みからは厳然と切り離された未熟なものであり、その高みから容赦なく断罪される運命を背負ったものとなる。
 頭で逆立ったヘーゲルの観念論を元に戻したとするマルクス唯物史観もその呪縛から解き放たれてはいず、やはり歴史は未熟な社会から輝かしい共産社会へと至る道程を弁証するものでしかない。ここでも過去は現在、そして未来に仕える奴隷たる地位を免れない。この奴隷をいかように扱おうが、それは現在、未来の人間の自由である。
 それに対し、「あらゆる歴史は、現代史である」とのクローチェの命題は、歴史哲学的にはディルタイのそれから導き出されるものである。理性哲学の対極にある「生の哲学」を基盤としたディルタイ歴史認識は、歴史を理性や精神という高みからとらえない。「理解」という言葉とともに知られる彼の歴史認識は、認識者自身の歴史存在への「追構成」、「追体験」がその前提としてある。つまり認識者自身が歴史に身を投じ、歴史的疑似体験を経ることで、その創造的再現を試みるのである。その営為自身が、過去は、現在、未来と密接に関わるものということを前提としており、無論、現在、未来の高みから過去を断罪するという方法論からは解放される。まさに「あらゆる歴史は、現代史」であり、過去の苦しみ、過ちは、現在の我々がそれらを共有すべきものであり、逆に現在の呻吟は過去にその淵源を求めうるものとなる。
 もちろん、ヘーゲル流の歴史認識であれ、ディルタイ流のそれであれ、それらはともに完璧なものではない。前者は過去をいたずらに犠牲にしがちであり、後者はともすれば、過去に情けを置きがちになる傾向は避け得ない。しかし、マルクス唯物史観の大波にさらわれた戦後史学は、余りにも前者の歴史認識にシフトしすぎた。しかも、その眼前には、断罪するにこれほどの好餌があるかという太平洋戦争が存在する。その赴くところ、太平洋戦争とそこに収斂される近代日本史の過程は、基本的には暗闇につつまれたものであり、できうれば我々日本人の記憶から一刻も早く消し去りたい歴史の過程に他ならないものとなる。そうした歴史認識の典型的な例を我々は家永史観に求めることができ、今もってその残滓が拭い去られたとはいえない。


 二 家永史観と教科書叙述の現状
 自身が執筆した高等学校用日本史教科書が文部省検定によって不合格とされ、それを不服として起こされた、いわゆる「家永教科書裁判」で知られる家永三郎は、その著『太平洋戦争』の中で、この戦争を「汚辱の歴史」として、次のように記す。
 太平洋戦争の歴史は、日本の歴史上に前例のない汚辱の歴史であり、人民惨苦の歴史であった。日本史の研究者はこの動かすことのできぬ厳然たる事実をたじろがぬ勇気をもって見つめることが必要であり、美化された偽わりの歴史に代わる客観的な史実を国民の前に明らかにすることが、科学的研究を生命とするものの義務であると確信する(『太平洋戦争』岩波書店、昭和六一年)。


 家永が「汚辱の歴史」とするそのシンボルが、南京事件であり、従軍慰安婦問題であり、七三一部隊となるのだろうが、家永は『太平洋戦争』では悪罵の限りを尽くしこれらの問題に触れるも、検定不合格を受けてその不合格教科書を世に問うた『検定不合格 日本史』(三一書房、昭和四九年)では、さすがに教育の現場ということを配慮したのか、意外にもこの三点には触れない。
 逆に、教科書上における「汚辱の歴史」追求に関しては、むしろ近年ますますエスカレートする。今、私の手元にある四社の教科書(山川出版社三省堂桐原書店実教出版株式会社)では、南京事件従軍慰安婦問題については記述の差こそあれ、全ての教科書で触れられ、七三一部隊については、そのうちの二つ、桐原書店実教出版の教科書で触れる。とりわけ桐原書店のそれは、上記三点を強調する傾向が最も強く、七三一部隊については他社とは異なり、本文中でその所業を記述する。加えて同部隊を「細菌戦部隊」と太字で紹介し、研究棟の写真までが掲載される。
 家永史観であれ、それを受けた現在の教科書叙述であれ、前節で触れた二つの歴史哲学のスキームでは、ヘーゲルマルクス流の歴史哲学が生み出した赤子である。その意味で、こうした教科書叙述の現状に異を唱えるべく立ち上げられた「新しい歴史教科書をつくる会」の設立趣意書の中に、ディルタイにおける歴史哲学上重要な術語である「追体験」という言葉が見えるのは何とも興味深い。それに言う。
 「わたしたちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」。
 そう考えれば、家永史観と現在の教科書叙述と、対するに「つくる会」の設立とは、歴史哲学的には、一方におけるヘーゲルマルクス歴史認識と、他方におけるディルタイ歴史認識のそうした対立軸がその根底にあるものと言える。


 三 歴史から人が消えた!
 太平洋戦争とその前史が、マルクス流の唯物史観の仮借ない洗礼を浴びる様は、家永史観に加え、遠山茂樹今井清一藤原彰の共著による『昭和史』(岩波書店、昭和三〇年)がその顛末をあますところなく伝える。発売わずか四〇日余で六刷りを数えたベストセラーでもある。
 経済的下部構造を重視する中、人間の主体的な営みを軽視するこの史観に異を唱え、後に「昭和史論争」と呼ばれる論争のきっかけを作ったのが亀井勝一郎であった。亀井は『文芸春秋』に、「現代歴史家への疑問」(昭和三一年三月号)と題する論文を寄せる。亀井は言う。「『昭和史』を私は通読したが、また現代歴史家の欠点を、これほど露出してゐる本もない」。
 亀井がそう断じた批判の専らは、唯物史観に付随する人間の営みの軽視、あるいはその描写の乏しさに向けられる。その点を亀井は、「この歴史に人間がゐない」、あるいは「個々の人物の描写力も実に貧しい」とした上で、「昭和史は戦争史であるにも拘らず、そこに死者の声が全然ひびいてゐない」と苦言する。さらにこう断罪した。
 「要するに歴史家としての能力が、ほぼ完全と云つていいほど無い人人によつて、歴史がどの程度死ぬか、無味乾燥なものになるか、一つの見本として『昭和史』を考へてよい」。
 それに対し、著者の一人遠山茂樹は『中央公論』に、「現代史研究の問題点」(昭和三一年六月号)と題する文章を寄せ、亀井の批判に応える。人間がそこにいないという亀井の批判に対し、「その言葉に異議はない」と同意した上で遠山は、そもそも歴史学と文学とでは人間の描き方に違いがあるとしてこう述べた。
 「私がはつきりさせたいことの一つは、歴史社会科学で人間をえがくことと、文学芸術で人間をえがくことの、内容上のちがいである」。
 そしてその点をはき違えると、「歴史は科学の分析の外にはみ出し、感動すべきもの、非科学になつてしまう」として、自己の立場を弁じた。
 この論争の中にもまた、人間の具体的描写を通じ、歴史をディルタイ流の「理解」に沿って構成すべきだとする亀井の立場と、一方、上部構造にすぎない人間の営みを通じて歴史をみるのではなく、あくまで下部構造によって規定されるところの歴史的法則に歴史を沿わせようとするマルクス唯物史観の対立がある。
 いずれにせよ、ディルタイ流の歴史認識とは対極に振れすぎた家永史観、そして『昭和史』史観によって、太平洋戦争とその前史が極めて空疎なものとなってしまったうらみは消えない。


 四 丸山真男の功罪
 戦後論壇の寵児となり、文字通り戦後思潮をリードした丸山真男が、政治学上に残した足跡はあくまでも偉大である。戦前の京都学派に代表されるように概念的、形而上的傾向が強かった政治学を、しかと社会科学の中に位置づけるなど、西洋合理主義的観点から政治学を根拠づけようとした功績は、いかようにしても否定しきれるものではない。しかし、理性の高みから歴史を分析するという、その合理主義的手法が効果を上げているかという点については疑問が残る。
 敗戦に打ちひしがれた多くの人々の心をとらえた有名な論文「超国家主義の論理と心理」(『世界』昭和二一年五月号)もまた、戦前日本の歴史分析としては物足りない点が残る。
 そのゆえんは、丸山がヨーロッパの国家のあり方を一つの理想として、その高みからそうはなり得ていない戦前の日本を断罪することに終始している点にある。
 例えば、丸山はヨーロッパの近代国家の特長が、カール・シュミットの言う「中性国家」、すなわち国家そのものが真理や道徳などの価値については中立的立場をとる点にあるとした上で、日本の場合、天皇制国家に象徴されるように如何にそうなり得ていないかの叙述に終始する。つまるところ丸山の手法の欠点は、なぜそうならざるを得なかったのかのゆえんにつき、過去に自らを投じ、その点から歴史を理解し分析するということの欠如にある。
 それは戦前を分析した丸山の他の論文でも見受けられる。「日本におけるナショナリズム」と題する論文において丸山は、ヨーロッパの古典的ナショナリズムのように日本は、それとデモクラシーの諸原則との「幸福な結婚」がなかったとし、それゆえに日本のナショナリズム、ひいては戦前の日本が、民主化が目的とする「国民的解放の課題を早くから放棄」せざるを得なかったと分析した。しかしながら、考えてみれば日本とヨーロッパとでは近代国家への歩みのタイミングやその諸条件は全く異なっていることは言うをまたない。そうしたことをすっぱりと捨て去った上で、単にヨーロッパのナショナリズムをひとつの基準に、日本のナショナリズムのありようを批判する丸山の方法論には最終的には合点しかねる。要するに丸山が言うように、「中性国家」が理想としても、ナショナリズムとデモクラシーとの「幸福な結婚」が望ましいとわかっていながらも、それには日本と英仏とでは余りにも客観情勢が異なりすぎていたとの点には顧慮が払われない。
 このような丸山の歴史に対するとらえ方の対極にあるのが、彼の好敵手とも言うべき小林秀雄のそれである。過去への「理解」の下、過去をしてじかに語らせることで、現在にその像を浮かび上がらせるべきとする小林は、本居宣長に仮託しそうした方法論の必要なるゆえんを説く。宣長をはじめ、古人の歴史に対処する姿勢を、「事物に即して、作り出し、言葉に出して来た、さういふ真面目な純粋な精神活動」(「本居宣長」)と評価する小林は、以下のようにも記す。


 彼の古学を貫いてゐたものは、徹底した一種の精神主義だつたと言つてよからう。むしろ、言つた方がいい。観念論とか、唯物論とかいふ現代語が、全く宣長には無縁であつた事を、現代の風潮のうちにあつて、しつかりと理解することは、決してやさしい事ではない(同上)。


 戦後歴史学の不幸は、以上に挙げた亀井や小林をはじめ、歴史認識における合理主義や理性過剰を戒める役割を担ったのが文学者たちであり、あるいは単にそれが文学者一流の直感にすぎないと受け取られたことにある。それは「三角帽子」なる匿名で服部達、遠藤周作村松剛という文学者三名が、唯物論や合理主義に抗し形而上の復権を意図して始めた実験とその挫折にうかがえる。昭和三十年、「メタフィジカルの旗の下のもとに」とのタイトルで『文学界』での連載が始まるが、その試みが、服部達の自殺という悲劇的な出来事があるも、わずか一年で終焉したことにもうかがえる。文学者たちによるささやかな抵抗を尻目に、そしてその火の粉を振り払いつつ、丸山流の理性による歴史認識が大手を振って闊歩していったことは、必ずしも戦後史学を豊かにしたとは言いがたい。
 (後篇に続く。)