山路愛山研究(その二) 文明批判と近代人の本質


 ――愛山における一番の優先順位は、国家共同体に他ならず、これらを破壊するのは近代文明と認識していた。


 四 文明は手段なのか目的なのか、近代日本二つの視点
 前号は、ざっと山路愛山の共同体思想における一番の要所といってよい「社会三元論」を紹介した。愛山においては、皇室・紳士閥・平民が国家共同体を構成する成員であると分析され、紳士閥(大富豪)が「個人主義自由主義」(愛山はこのように並列する)のもとに、己の利得のみを追求し、結果として労働者階級・平民級の存在そのものを脅かし、共同体を破壊している現状があるといった、深刻な認識が存在した。
 これは明治という時代のみに通用する見識なのであろうか? 歴史的条件とはその時代にしか具備されえないかもしれないが、今なお、愛山が説くところの国家共同体も存在し、社会三元論に至っても基本的に残存している。皇室、大富豪、平民といった階層や、基本的な社会構造は大枠ではさほど変化していないということを確認しておきたい。共同体の成員に対し、「各々其の処を得」せしめ、本来のあるべき役割を論じて、先祖・生者・子孫と続いていく悠久の生命体である国家共同体を保守しようとしたのが愛山思想なのであり、平成改革で国家共同体が破壊された現在もなお学ぶべきものが多くあるはずと考えている。
 愛山においては、紳士閥という存在が共同体を脅かすと認識され、その文脈においては大富豪を指すのだが、彼の青年期においては、近代文明そのものが国家共同体を脅かす存在として把握され、その対応策を提示するところから思想家として出発したということに着眼したい。紳士閥とは近代資本主義の主要な担い手であり、近代文明の象徴的存在なのであった。つまり、紳士閥へ批判的な目を向ける以前の前提条件として、文明こそが彼らを製造し、助長したといった認識があったことは到底看過しえないであろう。
 明治時代においては、二つの対立する文明観が存在したと見てよかろう。第一に彼らの認識では、文明は、世界的な帝国主義下の弱肉強食といった時代状況において、国家の生存のためにも物質文明の導入は必要であったから受容したのであり、それ自体が本来的には異質な存在であるといった理解。第二は、明治時代生まれの、明治維新の恩恵と新時代到来の感動を保持し続け、近代文明とは自明の前提であり、文句なしに素晴らしく人類が到達した最高の段階であり、そこには違和感を見出さないといった文明に対する牧歌的認識。前者は文明に対して悲観的見解を有し、それ自体が手段に過ぎないという姿勢があるが、後者は逆に楽観的であり、文明こそが目的であるといった認識である。具体的な人名を挙げれば、前者は明治一二年(一八七九)『民情一新』を著わし、西洋の近代文明が今や驚駭と狼狽といった大混乱を招き、これからの日本も、文明に対して警戒を怠るべきではないと、鋭く警鐘を鳴らした福澤諭吉の立場である。文明の指導者にして扇情者とみなされる彼は、文明を人一倍知るがゆえに悲観的観測でその将来を眺めていた。
 後者が明治四年(一八七一)生まれの幸徳秋水を代表とし、彼は『帝国主義』を著わして、文明という純化された価値を脅かす、「汚らわしい帝国主義」を批判し、社会主義という手段で人類が生んだ最高の目的を守ろうと試みた。明治四四年(一九一一)に、秋水は勤皇家であったが、不幸にして大逆事件で死刑にされた。
 前者が文明を「手段」と冷静に認識し、あくまで目的は国家の繁栄であるとする以上は文明を価値観として受容してそれ自体に熱狂することはないが、幸徳のように文明を「至上の価値」であると認識すると、文明の価値を守るために熱狂してサンディカリズムアナーキズムなどの行動に驀進するようになる。
 山路愛山は前者であり、彼は元治元年(一八六四)の生年で、旧幕臣という出身でもあり、江戸時代の価値を、「サムライ族」として濃厚に残す人物でもあり、近代西洋文明に対して距離感をもって眺める人間の一人であった。やがては近代こそが共同体を破壊するといった認識を獲得するようになるのである。


 五 文明は物質的人間を製造したに過ぎない
 山路愛山の事実上のデビュー作は、明治二三年(一八九〇)一一月一〇日に静岡劇場若竹座において演説草稿として残る『英雄論』であろう。
 この年は、大井憲太郎や中江兆民らが自由党を再興し、愛山も記者として参加する徳富蘇峰らの『国民新聞』が創刊され、府県制・郡制が公布され、第一回の衆議院議員総選挙が行われ、教育勅語が発布されるといった、まさに近代の政治機構、法制度が一応の完成を見た時期である。こういった時代の課題とは、文明開化のあり方を含めて、今後の日本の将来を総合的かつ俯瞰的に問うていくというべきものであった。それには『近時政論考』で知られる、近代日本が生んだ最高の政論家であった陸羯南安政四年〜明治四〇年〔一八五七〜一九〇七〕)の以下の発言がこの時代の雰囲気を言い表しているので引用しておこう。
 「帝国議会の選挙既に終わりを告ぐ。立憲政体は一二月を出でずして実施せられん。世人の言ふが如く今日は実に明治時代の第二革新に属す。如何にして此の第二革新は吾人に到着せし歟、必ず其の因りて来る所あるや疑いなし。天皇の叡聖にして夙に知識を世界に求め、盛んに経綸を行はせ給ふに因ると雖も、維新以来朝野の間に生じたる政論の運動は与りて力なしと曰ふべからず」(『陸羯南全集第一巻』)。
 つまり、今までの明治維新からの継承として、その思想力を総結集し、明治二十年代における近代化が固まった時代の未来を切り開いていこうといった宣言であろう。愛山が『英雄論』を著わした時代はこのような背景を持つ「第二革新の時代」なのであった。
 では、文明開化の成果とは一体どのような内容を持っていたのか。愛山曰く。
 「金色人種に、破天荒なる国会は、三百議員を以て、その開会を祝さんとて、今や支度最中なり、私権を確定し、栄誉、財産、自由に向て担保を與ふべき民法は、漸く完全に歩みつつゝあり、交通の女王たる鉄道は何れの津々浦々にも、幾千の旅客を負ふて、殆ど昼夜を休めざる也、日本の文明は真個に世界を驚殺せりと云ふべし」(『山路愛山集 明治文学全集35』)。
 文明の進歩はまさに驚くべきものがあった。国力を増進させた。人々の生活は便利になった。しかし、文明の成果はあくまで物質的進歩に留まったのであり、精神的には堕落である。
 「夫れ物質的の文明は唯物質的の人を生むに足れる而巳、我三十年間の進歩は実に非常なる進歩に相違なし、欧米人をして後へに瞠若たらしむる程の進歩に相違なし、然れども余を以て之を見るに、詮じ来れば是唯物質的の文明に過ぎず、これを以てその文明の生み出す健児も、残念ながら亦物質的の人なる耳」(同前)。
 つまり、文明は本来物質的なものに過ぎないのに、文明そのもの自体に踊らされた人間は、物質的人間に成り下がってしまったというのである。「色眼鏡」をかけて、「タバコ」を吸って、「フロック、コート」を威儀堂々と着こなす人々は、「銅臭紛々」とし、その撲茂、忠愛、天真といった品格を失った。「古来未だ嘗て亡びざるの国あらず、而して其亡ぶるや未だ嘗て其国民が当初の品格を失墜したるに因らずんばあらず」(同前)なのである。
 こういう時代状況を打開するには、唯物的ではない、その対極にある、品格と徳義を保持した理想的人材を養成する必要があるのであって、そこで提示されたのがまさに「英雄」といった存在なのであった。
 では英雄はどうしたら製造できるのか? 勿論近代的な手法では物質的人間を生むだけであろう。


 六 近代的な人材育成は国家共同体の活力を奪う
 愛山の批判する、近代的な人物養成法とは以下のようなものだ。
 「(一)世間或は第一九世紀の董仲舒を学んで法律、制度を以て人心の改造を企つる者なきに非ず、然れども法律、制度はたとひ十分其効果を奏するも猶人を駆りて模型に鋳造するに過ぎずして、其精神元気を改造するの用を為し能ふ者に非ざるは歴史上の断案なり」(同前)。
 法律・制度万能主義批判である。人間が主役の共同体である。なんで、人間が生み出す法律や制度に自分らが使われ、人心の改造が達成できるのだろうか。チャップリンの映画『モダンタイムス』では、工場で働くチャップリンが機械を使っていたら、やがては逆に機械そのものに体ごと飲み込まれるシーンがあった。チャップリンは「モダン」の本質をそのように読み取ったのであり、彼に云わせれば、「物」に使われて、やがては、精神を磨耗させ人間性を喪失した人々を「近代人」と呼ぶのである。陸羯南も云う。
 「国は永久に存立するものにして其の目的も亦た永久に存立す、故に国の生命及目的に比すれば政体の変更僅に一時の出来事に過ぎざるなり。政界に賤丈夫あり、国其物の大目的を知らずして徒らに一時の変更を畢生の目的と為し、憲法の実施に遭ひて彼岸に達したることゝと思ひ、議会の開設に際して国の能事畢れりと思ふ。是れ何等の誤謬ぞや。議会は開設せられたり、我が人民の幸福安寧は何程の進歩を為すや、憲法は実施せられたり、我が帝国は何程の富強を増し、何程の品位を高めたるや、吾輩請ふ其の説を聴かん。方法を見て目的と做すものは猶ほ寝食を以て志業と為すが如きのみ」(『陸羯南全集第二巻』)。
 憲法だ、議会だ、といった存在はあくまで国家という悠久の生命体からすれば、国家繁栄の為の手段に過ぎず、一過性の現象であり、形式なのだ。民主・自由と形式ばかりを重んじ、「仏作りて魂入れず」と言わんばかりに、その中身に無頓着な戦後人を見たら、羯南は同様の指摘を再度おこなっていたに相違ない。
 「(二)更に学校教化の作用を借りて人心改造の途となさんとする者あり、是前法に比すれば固より賢しこき方法なるべしと雖、斯る注入的の教育を以て人物を作らんとす、吾人其太だ難きを知る、昔し藤森弘庵藤田東湖語りて曰く、水藩に於て学校の制を立てしこと尋常一様の士を作るには足りなん、奇傑の士は此より跡を絶つべしと学校の教育必しも人物製造の好担保たらざるなり」(同前)。
 愛山は独学の精神を重んじ、明治三二年(一八九九)から務めた信濃毎日新聞主筆時代に「田舎の定石を知らない強い碁打こそ理想だ」と述べ、「都会の先生から学んだ定石通の碁打」を心底軽蔑した。つまり、ここで批判の俎上にあがっている学校制度も「都会の定石通の碁打」を生み出すに過ぎず、ひ弱な鋳型なのであった。田舎の知識とは、困ったことがあれば、誰かにやってもらうわけにもいかずなんでも独力で解決しなくてはならないために、総合的で実際に役立つ知識なのである。活力ある知識だ。迷路に入り込んでも長年の経験とカンで克服するのが「田舎の碁打」である。
 都会の碁打は定石に詳しいばかりで、見たことがない局面に到達すれば、豊富な定石の知識も役に立たず、周章狼狽し、結局は負けに至る。愛山は歴史、中国思想、教育論、比較文明とフィールドを選ばずに活躍した総合知の思想家であり、近代の特徴である社会分業的な、局限された領域しかない、役立たずの専門主義者は、唾棄すべき存在であった。しかしながら、博識であればよいということでもない。問題は知識の質だ。当時博識で名高い井上哲次郎と高橋五郎をからかい、「シェークスピアを読まなくては文学がわからないなら、どうしてシェークスピアシェークスピアになれたのか」と皮肉り、「博学だけにては余り有難くもなし、勿論こはくもなし」(『明治文学史』)と述べ、真の智慧なき知識人だと批判した。
 (一)はまさに学閥に支配された官僚が支配する世界を生み出し、(二)では都会のひ弱な人材を生み出す。ともに、近代的な人材育成方法であり、鋭い近代批判となっていることにお気づきであろう。愛山は、近代人を批判し、英雄論を提唱する。次号で見ていこう。