山路愛山研究(その三) 英雄論に見る明治人の人間観

(前回の補足説明:文明は「手段」か「目的」か)
 1 前回、文明を「手段」と見るか「目的」と見るか、この二つの対立が明治思想家の間であったということを述べた。しかし、あれだけでは非常に分かりにくく、ラフすぎる。
 福澤諭吉は明治八年(一八七五)、『文明論之概略』で、「西洋の文明を目的とすること」と教えたのではなかったのか、お前は勉強不足だ、と日本思想史をやっている人間から批判を浴びること必定なので、今のうちに書いておきたい。基本的に主張自体は間違っていないと思っているからである。
 福澤においても時代状況において言論が当然変わるわけである。そんなことは当たり前のことだ。認識が変化することで思想家そのものの価値を減じることにつながるなどとは、私には全く思われない。また長期にわたる言論活動をなした思想家の発言には、青臭い時期もあれば、成熟する時期もあり、少々の矛盾はつきものである。
 福澤が「西洋の文明を目的」とせよと説いた時は、明治初年代において、これから「富国強兵」、「殖産興業」を目指し、「学校」や「工業」、「陸軍」、「海軍」といった「文明の形」を導入する段階に、どうしても民衆啓蒙として「文明観念」の拡大が必要であったからである。また、その発言がなされた時代背景という大きな流れを無視してはいけない。そういった歴史解釈にとって極めて重要な問題を省くから、歴史そのものの本質が遠のくのである。囲碁と将棋で「大局観」というが、これを忘れてはいけない。
 明治一二年の段階で福澤は、「蒸気船車」、「電信」、「郵便」、「印刷」といった文明の利器により、旧物が廃滅されることで、民情が全く変わってしまい、人々が驚駭と狼狽する、混迷の世界に覆われてしまったと説明するのである。文明の有効性を説いた本人が、こんどは違う認識を披露する。それは矛盾ではなく、知的な態度としては、誠実だ。過去の認識を恐れず修正できる思想家こそ、偉大だろう。では、『民情一新』をみてみよう。
 「しかるにここに怪しむべきは、わが日本普通の学者・論客が西洋を盲信するの一事なり。十年以来輿論の赴くところを察するに、ひたすらかの事物を称賛し、これを欽慕し、これに心酔し、はなはだしきはこれに恐怖して、毫も疑いの念を起さず、一も西洋、二も西洋とて、ただ西洋の筆法をもって模倣に供し、小なるは衣食住居の事より大なるは政令法制のことに至るまでも、その疑わしきものは西洋を標準に立てて得失を評論するもののごとし。奇もまたはなはだしと言うべし」と言う。
 文明のリーダー福澤が、日本人が西洋の猿真似をする愚を戒めているのは、「盗人猛々しい」と、思ってしまうほどだが、ここに注目しないわけにはいかない。研究者でも『民情一新』を重視する人はあまり少ない気がする。福沢には近代主義のリーダーとして存在し続けてもらわないと困るからか。
 彼は引き続いて、「今日の西洋諸国はまさに狼狽して方向に迷う者なり。他の狼狽する者を将って、もってわが方向の標準に供するは、狼狽のもっともはなはだしき者にあらずや」とまで述べ、もはや西洋文明自体を標準とすることはできないと断じる。それは、ある程度、『文明論之概略』で説かれた目的が達成され、文明の導入が進んだから言えることでもあった。
 福澤は「学問も政治もその目的を尋ぬれば、ともに一国の幸福を増進せんとするよりほかならず」(『学問の独立』)と言うのだから、「西洋人になれ」、「西洋文明自体に同化されてしまえ」、と教えたわけではない。でも当時の多くの人々はそう思っただろう、事実、山路愛山も、徳富蘇峰も、竹越与三郎も陸羯南も、当初は「物質主義者」にして「プラグマティズム」の総帥であった福澤へ、厳しい批判をなした急先鋒であった。
 福澤の言論活動の「目的」は当然ながら「一国の幸福」を願うことであった。西洋文明はその「手段」に過ぎない。


 2 文明そのものに、「文明的道徳」とつけて呼ぶ幸徳秋水に対して、「物質的文明」と強調する山路愛山。彼らは互いに平民主義者として、形は違えども明治三〇年代に社会主義を唱えることになるのだが、この文明観の差は想像以上に大きく、両者の社会主義思想に大きな影響を与えた。
 幸徳は「自由・正義・博愛・平等」、これが文明の道義であり、日本人も共有すべき価値であるとした。しかし愛山は、文明開化によって「撲茂・忠愛・天眞」といった品格や、それをつくる道徳を喪失したと説く。「東西に行なわる徳教の旨になんらの差別あるや」(福澤諭吉)なのである。愛山は西洋文明に道徳を発見せず、日本や東洋にそれを求めた。しかし、幸徳のような社会主義者は、輸入の理論に頼り、日本的な道徳には学ばなかった。
 基本的にこの対立図式は現代においても変わらず、明治の「西洋」が今では「アメリカ」に衣替えされただけだ。アメリカを「文明的道徳」と見なすか、「物質的文明」と見なすかで抗争は続いている。親米主義者は、アメリカンリベラル・デモクラシーのためなら「日本的な経営制度は時代遅れだから派遣や契約社員にしよう」、「民と官が結託した封建的な経済システムを放棄し、透明な市場主義を採用し規制緩和を進めよう」と主張する。
 反米主義者は、これに対して、アメリカ流の文明を目的とは考えない。「日本的経営制度」といった、日本独自の歴史的文脈から生まれた道徳に立脚した、特殊な価値観があるなら、これらを放棄し、アメリカに擦り寄るのは、おかしいと、国家共同体を保守する側に立つ。
 どちらかと言えば、近現代、常に注目を浴びてきたのが「文明的道徳」派であって、彼らは、西洋、時代を変えればアメリカ文明という「目的」に驀進し、日本的道徳を放棄し、国家共同体を破壊すべく運動した、左翼主義者である。真正の愛国者とは、文明の本質を物質的と見なし、目的は日本的な価値観を保守し、国家共同体の繁栄、防衛に努める人々であった。


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 七 明治の時代思想としての英雄論
 近代とは、「手段」自体を「目的」化した、倒錯(フェティシズム)の時代である。
 チャップリンが、『モダンタイムス』において、自分の身を歯車に巻き込ませるシーンを撮影してまで、機械社会をせせら笑った意図は何か。それは「機械は人間社会を豊かにする手段だろう。しかし、いまではその機械に逆に使われてしまい精神までも貢いでいる人間とは、滑稽じゃないか」という思いが根底にあってのことであった。
 山路愛山も「器械より人間が大事」と、この明治二三年に述べている。「思ふに日本の今日は器械既に足れり、材料既に備れり、唯之を運転するの人に乏しきを患ふる耳」(『英雄論』)と。本当の意味で器械(近代国家で出来上がったシステム)を使いこなせて、国家共同体を活性化し、動かすに足る、人間性を備えた人物の必要性を訴えているのである。「器械備付の業、略ゝ成れるを以て更に之を使用すべき人物養成に向はざるべからず」と。
 ここでわれわれが感じ取っておかねばならないのは、近代国家の法律・制度・機構が、一応の完成を迎えたときに際会し、「人々の品格を喪失しはじめたこの国は、滅びる」といった、彼の深刻な憂慮の念である。あの、政府批判で有名な陸羯南ですら、この議会制度確立期では、些か楽観的な傾向があったと言われている。
 愛山は、二三年に静岡袋井方面の伝道を命ぜられ「代用牧師」として赴任し、このすぐ後に、二四年創刊のメソジスト三派の合同機関紙的性格をもった『護教』誌の実質的主筆待遇をもって迎えられていたといった背景からも、彼の言説の背景を窺い知ることができる。「精神的革命は時代の陰より出づ」(『現代日本教会史論』)とは後世の発言だが、彼は旧幕臣の天文方の子供であり、新時代の「敗北者」という日陰者の愛山にとって、自身の活躍の場を何処に求めるべきであったのか。それは、文明開化の弊害として出現した「物質的社会」を正常に戻すための、精神面での「人心の改造」にほかならないのであった。
 しかし、その方法は容易ではなく、法律や制度、公教育といったものに、「人心の改造」といった機能を期待しえないのは、前回に見たとおりである。そこで「英雄を以て英雄を作る」べしとの、「英雄論」が提示されるわけである。
 「(三)吾人只一策あり是れ天然の法則なり、是れ歴史上の事実なり、何ぞや、英雄を以て英雄を作るに在るのみ。蓋し観感興起の理、所謂『インスピレーション』の秘奥は深く人心の裏に潜む、吾人今其如何にして英雄の品格が他の英雄を作り能ふかを弁解せんとする者にあらず、而れども生物が生物を生ずることが生物界の原則たるが如く、英雄の好模範が更に他の英雄を造るの一事は疑ふべからざるの事実なり、国家若し英雄漢あらんか、一波萬波を動し、一声四辺に響くが如く、許多の小英雄は恰も大小の環の如く、中心なる大英雄を取巻きて、一団の人色を造るべし、彼等は斯の如くにして革命を催すべし、国の元気を回復すべし、其土地の鹽となるべし、其世の光となるべし、大学に所謂一家仁、一国興仁、もの是也」(『英雄論』)。
 英雄には大英雄、小英雄といて、両者が循環することで、人材の「動脈硬化」を未然に防止し、人材を流動化させることで、「生き物」である国家共同体を活性化させることを狙いとしたのであった。時代精神を体現しえるのは、英雄という存在以外にはありえないという見識ともなり、これは実際に彼の史論に結実した。英雄史観を構築した彼は、『源頼朝』や『足利尊氏』、『豊臣秀吉』、『徳川家康』、『荻生徂徠』、『新井白石』、『西郷隆盛上』といった一連の人物評伝を残す。とりあえず、この「大英雄」と「小英雄」については、大変重要な問題を含んでいるので次回に述べることにしたい。
 「英雄論」なんて、陳腐な話にしか聞こえない人もいるかもしれない。しかしながら、愛山に限らず、明治人が理想とした史上の人物像、未来に向けてのあるべき人間像、といった問題なしに、この英雄論を考えることなどできないのである。それだけ、文明開化の時代とは、人間性に対する大変革を伴っていた。西洋化に対して、日本人がどんどん変わってしまうといった極めて強い危機意識が、明治思想家たちの間にあったことは、想像するに難しい問題ではない。その反動が、英雄論として出現した。
 少なくとも、『英雄論』と名のつく書物で、筆者が所有しているのは、福本日南(安政四年〜大正一〇年〔一八五七〜一九二一〕)や三宅雪嶺(万延元年〜昭和二〇年〔一八六〇〜一九四五)といった人物の書である。すなわち、この『英雄論』とは、明治思想家の間に、かなり幅広く流通していた時代思想の一つといってよかろう。その理由ははっきりしている。カーライルの『英雄及び英雄崇拝』といった論が、彼らに対して甚大なる影響を与えたのであった。
 カーライルの思想を解説して柳田泉は「カーライルのこの書は、唯物思想からいへば、ある意味で、正反対に立つものである」(『英雄及び英雄崇拝』春秋社、カーライル著、柳田泉訳、昭和二五年〔一九五〇〕)と述べる。「カーライルが唯物思想を排斥したのは、排斥のための排斥でなく、彼が何よりも急にするところと触着するところがあつた為であつた。彼が人生に於いて第一に尊んだのは、人間の人間としての生き方である。彼は、人間は神の創造の中心に立つもの、従つて物に役されて生きるのは間違ひで、人が物を役して、神の道に生きるべきであるとした。彼はこれを英雄的生き方と呼んだ。(中略)カーライルのいふ神とは、宇宙を宇宙たらしめ、人間を人間たらしめてゐる主宰者のこと、彼のいふ英雄は、人間の世界にありつゝも、他の人間よりも多くの神の道――真実(Truth)を意識して生きる人々のことである。彼はかゝる生き方を真誠(Sincerity)といひ、これに反対の生き方を偽善(Cant)とよんだ。かゝる真誠の生き方が、人間の英雄・偉人としての生き方であり、その真誠への認識に、人間社会の真の土台があるとした」(同前)。
 愛山が土台とした人間観、英雄観も、カーライルからの継承であった。唯物的人間とは、ただ単に呪物崇拝の如く「モノ」を尊ぶ人間だけを言うのではない。愛山は、人間としての精神的な豊かさを忘れ、器械そのものに使われ、法律や制度という共同体社会を運営するシステムそのものに、「人心の改造」を委ね、「人間が中心となり動かす共同体」という本質を忘れた者たちにその姿を見たのであろう。
 彼の近代文明が生み出した状況に対する危機意識は、誠に深いものであった。