戦後史学における歴史否定の問題とその相克(中篇)


 五 「先祖に対して抱く共通の誤解」も必要
 「民族とは、先祖に対して抱く共通の誤解と、隣人に対して抱く共通の嫌悪感とによって結び合わされた集団である」、との言がヨーロッパにはある。一般にこの言葉は、所詮は民族なるものは幻影にすぎないとの例証として引用される場合が多いが、しかし、民族であれ、国家であれ、そうした集団がある種のアイデンティティを確立する際には、「先祖に対して抱く共通の誤解」、すなわち歴史が必要であることをも併せて伝える。
 もっとも、アイデンティティの確立に際し、歴史を必要とするのは何も民族や国家ばかりではない。個人にとっても、自己のアイデンティティを確立する上で自らの来し方を振り返ることは必要である。例えば、心理学者、榎本博明は、自己のアイデンティティの確立を期し、自らの歴史を振り返ることで語られる「自己物語」の重要性を指摘する。


 青年期の自己の探究とかアイデンティティの確立とか言われるものは、このような自己物語の構築を意味するものと言ってよいであろう。自分なりに納得がいき、なおかつ自分のことを理解してもらいたい周囲のひとたちを納得させることのできる自己物語の探究がいわゆる自己の探究であり、そのような自己物語が構築できたときにアイデンティティが確立されたという。このような自己物語をもつことにより、過去から現在に至る生活史の諸要素が一定の流れのもとに配置され、そこに人生の意味というものが現れてくる。自己物語が確立されていないと、自分としてのまとまりをつける求心力が欠けるため、日々の生活の諸要素がバラバラに散逸してしまう。アイデンティティの拡散とは、まさに自己の生活史をまとめあげる物語の欠如を指すと考えることができる(『〈私〉の心理学的探究』有斐閣、平成一一年)。


 自己のアイデンティティ確立について記す上記の文章中、「自己」を「国家」に、さらに「自己物語」を「自国史」と置き換え読む。と、なるほど国家アイデンティティの確立には自国史への深い理解が必要だと合点される。
 昨今、愛国心ということが喧しく語られるが、自国を愛すなどと口に出すことに面映ゆさを覚えるならば、それを国家アイデンティティの確立と言ってもよい。国を愛すなどということに嫌悪感を催すものも、よもや国家アイデンティティの確立までは否定しまい。その確立に何としても歴史が必要であるとすれば、歴史の否定は国家アイデンティティの崩壊を意味することは言うをまたない。
 しかし、現今の日本を顧みるに、すでに国家アイデンティティの崩壊は至る所に散見される。


 六 国際的「ひきこもり国家」=日本
 今、世上をにぎわす不登校、ひきこもりが、自己アイデンティティを確立しえないところから起こるのは言うまでもない。自己アイデンティティの未確立は、自己否定と軌を一にする。心理学でいうところの、「I am not OK」である。逆に自己アイデンティティの確立と「I am OK」とはパラレルな関係にある。この自信が、「You are OK」にもつながる。
 この関係を国家としての日本に置き換えると、一国平和主義といい、アメリカをはじめ余りにも諸外国に自己主張できない日本は、いわば国際的ひきこもりという宿痾に罹患していると言ってもよい。ひきこもりの背景に自己否定があるとするならば、自国の歴史をこれまでかと否定する日本が、国際的にひきこもるのは余りにも明快にすぎる。
 国際的ひきこもりを克服するかぎは、自国史への深い理解以外にはないが、それはまた良き国際人たる要件にもつながる。自国の文化であれ、歴史であれ、そこに土台を置かない者に、良き国際人たる資格はない。国際官僚として長きにわたり国連に奉職した明石康の次の言葉はそのことを伝える。


 国際公務員になることは、抽象的な世界主義に殉じることでもなければ、自国以外のすべての国を愛するディレッタントになることでもない。自国社会での適応に失敗して海外逃亡をはかる根なし草的人間と、職場としての国連とは無縁である。……国際官僚は自国でも立派に通用する人でなければならない。自国の文化なり思考様式なりに対する理解にたって、よい自国紹介者であることが必要な資格といえるのである(『国際連合岩波新書、昭和六〇年)。


 ギリシャ神話にも比すべき古事記の荘厳な神々の世界を詠じ、また、絢爛豪華な一大絵巻とも言える源氏物語をそれにふさわしい言葉で語る。そのような日本人の育成を、今や日本の歴史教育は放擲し去った。それは同時に良き国際人たることの放棄でもある。
 日本史への誇りと矜持の喚起をもはや日本人自らに期待することはできない。以下の話はそのことを物語る。


 七 ライシャワーの慧眼と「明治デモクラシー」
 理性の高みから歴史を眺め、場合によってはこれを裁くというスタンスではなく、過去への「理解」から虚心坦懐に明治以来の近代日本史を跡づけ、これに一定の評価を与えた一人が、ライシャワーという外国人であるというのは何とも皮肉である。
 ライシャワーは、大正デモクラシーは言うに及ばず、明治のしかも初期に「非常にリベラルな傾向」がすでに存在し、それがそのまま戦後の民主主義につながっているとし、次のように記す。


 どうやら、戦争直前の時代や明治時代のことから日本を考える人は多いが、大正から日本を見る人は少ないようです。ですが、明治前半には非常にリベラルな傾向が存在しました。それから明治後半に、強烈な帝国憲法時代へのスイングがきました。日清・日露の戦争と第一次世界大戦の時代です。それからまた、大正デモクラシーへと流れが変わりました。ついで、またもやスイング、反対の方へ曲がって戦争がきます。リベラルな方への二度のスイングと、反対への二度のそれと、どちらが重要なスイングでしょうか。リベラルです。ですから、明治初期、大正デモクラシーそして現代日本というのは、ほんとのひとつながりなのです(松尾尊允『大正デモクラシー岩波書店、平成二年)。


 こうしたライシャワーの戦前期デモクラシーの評価と軌を一にするものとして、近年興味深い本が出版された。『明治デモクラシー』と題するこの本の著者、東大名誉教授の坂野潤治は、早くも明治時代に確たるデモクラシーが存在し、それが戦後の民主主義につらなるとした。この著の「はじめに」で坂野は次のように記す。


 本書が明らかにするように、「主権在民」の思想は一九四五年の敗戦によって生れたものではない。それよりも六五年前の明治一三年(一八八〇)には、この思想は国民的運動の一角を支配していた。また、自由民主党の一党支配に対抗する、政権交代を伴った議院内閣制の主張も、最近の一〇年間に初めて生れたものではない。それは明治一二年(一八七九)には明確な形で定式化され、昭和七年(一九三二)まで、民主主義論の有力な一角として存在しつづけたのである(『明治デモクラシー』岩波書店、平成一七年)。


 ところで、すでに明治の初期にデモクラシーの基礎ができあがっていたとのライシャワー、坂野の所説は、理屈を超えて純粋に日本人としての誇りを回復させてくれる。先に『昭和史』の執筆者のうちの一人の遠山が、歴史社会科学の領域で人間を描くことが歴史をして「感動すべきもの、非科学的になってしまう」と警鐘したが、歴史を理性のうちに閉じ込め、それを感動と誇りの対象外においやったことで、我々日本人はいかほどのことを得たのであろうか。少なくとも現行の教科書がそうした感慨を呼び覚ますことはないし、それはもはや期待できない。
 その点、ここにどうしても記述しておきたい文章がある。それは常に私に日本人としての誇りを担保させてくれる私の最も愛してやまない歴史叙述であるが、それがまた外国人ネルーであるというところに一抹の悲しさを覚える。この文章はまた、暗黒に満ちたとされる戦前期の日本に一つの光明を与えつつ、その歴史的事件についての最も客観的公正な評価をなしたものとしても白眉である。それは日露戦争に関わることである。


 かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった(大山聡訳『父が子に語る世界歴史』第三巻、みすず書房、昭和四〇年)。
 (後篇に続く。)