道路関連報道に見る〈基本的国家了解〉の溶解

 道路行政を巡る否定的報道
 このところ連日「道路」の話題が新聞紙面やテレビの報道番組をにぎわせている。道路特定財源一般財源化や暫定税率の話題から、道路財源である五九兆円という数字や、一万四千キロの高速道路網計画や費用便益比、道路の中期計画など、ほんの半年前なら誰も話題にしなかったようなすこぶる専門的な用語が、連日連夜取り上げられている。とりわけ、年間予算六兆円という数字が衆目を集めているようであるが、この数字は何も政府が隠し立てしてきたものではなく、誰でも直ぐに調べられる公表値である。その一方で、この年間六兆円と対比して報道されているのが、道路行政の?無駄遣い?が如何に多かったかという報道である。無駄な道路計画、無駄な調査にはじまり、ミュージカル支援や無駄な海外出張など、道路行政に携わる人々の行為がありとあらゆる角度から調べられ、報道されている。
 筆者は普段、テレビのニュース番組を見る機会はあまりないのだが、今回のこの道路行政関連の報道は仕事の関係からある程度は見るようにしている。その報道を見るにつけ、何とも細かいことをよく調べてあるものだと感心せざるを得ない。
 特に一番感心したというか唖然としたのが、ニュースキャスターが事実情報の報道とは別に、相当強い調子のメッセージやコメントを発しているという点であった。例えば、「道路特定財源一般財源化することは既定路線ということですが、その一般財源化が形骸化されないように、しっかりと監視しないといけないですね」「皆さん、国に任せていてはどうしても無駄な道路がつくられるようです。こういった計画は地元に任せるよう、財源を地方に譲渡するようにすべきですね」等々。これらは、一つのネタが終わる時の締めのフレーズとして使われていたものであったが、例えば前者のメッセージは、一般財源化した時に道路行政をどう確保するかを論ずることを封殺する勢いであるし、後者のメッセージは国土的視野からのネットワーク形成という視点が不要であるかのような勢いである。おそらくは、連日ニュースをチェックしていれば、これと同等、あるいはこれよりももっと唖然とするような単純なメッセージが、ニュースキャスターの口から数百万人、数千万人の人々に発信されているのであろう。
 無論、テレビを見ている人々が、「このニュースキャスター、何訳わかんないこといってんだろうねぇ」なる反応をしているのなら、筆者としてもなかなか面白い事を言うキャスターだとばかりに落ち着いて見ていられる。しかし、どうやらそうでもなさそうである。細かいことは失念してしまったが、以前とあるニュースで数兆という道路財源の水準に賛成ですか反対ですかというような趣旨の世論調査を行い、実に九割の人々が反対しているということが報道されていた。繰り返すが、つい半年前までなら大半の人々が年間どれくらいの財源が道路に使われていたかを全く知らなかったはずであるし、ましてや、その財源が「どのように使われるのか」については現時点ですらほとんど理解している人々はいないに違いない。そうである以上、――今それを持ち出しても詮無い話ではあるが――?普通の庶民感覚?で言うならば、こうした質問には?分からない?と答えるのが筋ではないかとしか思えないところである。が、実に九割の人々が「反対」なる意見を表明しているのが事実である。このことはつまり、相当程度の人々は、ニュースキャスターの意見におおむね同意しているということを意味しているのである。


 大衆の気分の増幅装置としてのマスコミ報道
 ところでこうした事態がもたらされた図式としてしばしば想起されるものは、?報道番組側がある意見を持っている、?それを、大衆に報道する、?その結果、大衆世論はその方向に流れていく、という単純な図式であろう。しかし、実態は必ずしもそう単純なものではない。なぜなら、この?の「ニュースキャスターが持つ意見」なるものの源がどこにあるかと問えば、それはニュースキャスター本人が創出したというよりはむしろ、「大衆の気分」そのものだからである。すなわち、報道番組は大衆の気分が求めるものを提供しているに過ぎないのである。その意味において、報道番組は大衆世論の「生成装置」というよりは、大衆の気分の「増幅装置」であると見た方が適当であると言えるであろう。
 例えば筆者は、こうした報道が繰り返しなされる前に、次のような体験をしたことがある。
 筆者は、普段の仕事では道路行政のお手伝いをする事が多い。だからであろう、とある会食の席にて近しい人物に「道路って、本当にいるのか?」という質問を受けた。それは純粋な知的好奇心から尋ねているというよりは、当方が道路行政とそれなりの関わりを持っているということを前提に、当方をやりこめることを通じて道路行政を軽くいたぶってやろうという気配を十二分に漂わせた質問であった。当方としてはそうした気配もあるのだから、それとなく無視しても良かったのだが、一応「道路がない、というのでは交通が立ちいかないので必要なのは当然である。しかし、個々の道路事業については、要る場合もあれば要らない場合もあるだろう」と差し障りのない形で答えてみた。するとそこからさらに、道路の計画決定についての質問を立て続けに頂戴してしまったので、「計画決定されたのなら、それをちょっとしたことで何もなかったことにするというのは、あまりにもそれを決めた方に対して失礼である。そんなことばかりしていれば、今何を決めようが意味がなくなってしまう。一旦決めたことは、特に、国が正式に一旦決定したことについては、よほどの問題がない限り実行するというのは議論以前の問題だろう」とも答えてしまった。どうやら、これが癇に障ったらしく、「そんなのは不合理ではないか。国が決めようが何しようが、要らなければ作らなければいいじゃないか」ということとなり、挙げ句に「それじゃぁ、例えば、第二名神道路なんか、要らんのではないか?」と、具体的事例を挙げたさらなる追撃を受けてしまった。しかし、それにきちんと答えるには、実際のところ、それなりの情報がないと判断ができない。そして何より、自らが「決断する立場」にあるのなら、自らの情報量がどの程度であるかはさておき、とにかく可能な限りの情報を集め、その範囲で要る要らないを判断し、決断してみせざるを得ないのであるから、そうしようと志すべきであろう。ただし、そういう局面に直面していない単なる酒飲み話の席のような状況においては、「要るかも知れないが、要らないかも知れない」という事以上は何とも言えない(無論、「もし、自分が意思決定権を持つなら」というような仮想的議論を盛り込んだ会話をするのはなかなか一興ではあろうが、残念ながらそういう楽しい席にはなりそうになかった)。それをできるだけ分かり易く説明したつもりであったのだが、通じる気配はない。そんなやりとりの中で、先方から「第二名神道路なんか、絶対要らないだろう」なる発言があったので、ついつい、「絶対」に要るとか要らないとか、そういう断定的なことをおっしゃるのはいかがなものかと強い調子でたしなめてしまった。後はもう、自分のその発言がその場を凍らせてしまったので、この話はここで終わることになったのだが、いずれにしてもこの話は、今回の道路特定財源一般財源化の議論がマスコミで取り沙汰される以前から、一般の多くの人々が、道路行政に対して概して否定的な気分を抱いていたことを暗示しているように思う。こうした気分が大衆の中にあるからこそ、マスコミはことさらこの問題を取り上げているのであろうし、それがあるからこそ道路の話題が政治課題に上る顛末となったのであろう。


 基本的国家了解と怨恨
 ただし、この話の顛末は、道路行政に対する人々の態度を暗示しているだけに留まるものではないように思う。それは、多くの人々が「国家の決定」や「国民と国家の関係」なるものについての基本的な意味を了解していない、ということをさらに暗示しているように思える。
 個人的な事で恐縮であるが、筆者はものごころが付いた頃には既に、国家というものを何かしら「畏れ多いもの」として認識していたように思う。この感覚は、しばしば「お上意識」とも呼ばれているものであるとは思うが、いわゆるサヨク的な気分に大いに支配され、国家というものに対して相当に否定的な態度を持っていた学生の頃であってすら、筆者にそういう感覚をぬぐえずに抱いていたように思う。もう少し正確に言うのなら、筆者は世の中には「畏れ多いもの」なるものがあり、その一つに「国家」があげられると感じていたように思う。
 ただし、国家は(少々形容矛盾であるが)単に畏れ多いだけのものではなかった。自身の国家は、言うまでもなく「よその国」のようなよそよそしいものなのでは決してなく、自身と繋がるものであり、かつ、それ故にその振る舞いに自身が影響を受けると共に自身の振る舞いにも僅かなりとも影響を受け得るものと感じていたように思う。この感覚は、先の「お上意識」とは少々異なり、むしろその逆に「自らがお上に立つ」ことを想定した感覚であると言えるようにも思う。いずれにしても、この感覚は、おそらくは先に述べた「畏れ多い」という感覚よりも後の発達段階にて筆者の中に明確化していったものであろうかとは思うものの、それでもやはり、ものごころが付いた頃には、その感覚の萌芽は十分にあったように思う。
 つまり、筆者がものごころが付いた時には既に、好むと好まざるとにかかわらず、畏れ多いものであると同時に、自身のあり方に決定的な影響を及ぼしつつも自身の振る舞いにも依存しているものとして、国家を了解していたのである。
 無論、こうした筆者の個人的な「国家了解」がどういう代物であるのかを評価する能力を筆者は持たないが、それは何も特殊な感覚ではなく、それなりに社会的、歴史的に共有された感覚であったように思う。いずれにしても、もし仮に国家と国民の在るべき関係なるものがあり、その基本的な意味についての了解を〈基本的国家了解〉と呼ぶとするなら、この〈基本的国家了解〉こそが、先の人物、ひいては昨今の多くの人々において希薄、あるいは、欠落しているのではないかと思えるのである。
 もしもこうした〈基本的国家了解〉がなければ、国家などは単に、サービスを提供してくれるものに過ぎず、そのサービスを購入するために致し方なくカネを(税金として)払い込んでいるという機関にしか思えなくなるであろう。そして、そのようなサービス機関に「カネを支払ってやっている」にもかかわらず、そのカネを「勝手に無駄としか思えないような事業に年間何兆円もつぎ込んでいる」とするなら、大きな不満を感ずることとなろう。そして、その不満を訳の分からぬ国家権力等というもののために解消できない気配があるとするのなら、その不満はやがて「怨恨」(ルサンチマン)へと繋がることとなろう。ここでもし、この怨恨的気分を抱いているのが周りを見回して自身一人だけであるのなら、その人物は愛想笑いでも浮かべながら我慢せざるを得ないところであるが、周りに似たような怨恨的気分を抱いている人々が少なからずいることに気づけば、ましてや、何百万人、何千万人が同時に視聴しているであろう報道番組の中で同様の怨恨的気分が吐露されているのを見れば、ここぞとばかりにこの怨恨的気分の憂さ晴らし、うっぷん晴らしに走ることとなろう。先に紹介した話においてその登場人物が筆者に問いかけたのも、おそらくは、こうした構図があったからではないかと思う(事実、先の人物は、自らの正当性を主張する文脈の中で、「私みたいに感じているのは私一人ではない、あなた以外のほとんど全ての人がそう感じているのだ」なる趣旨を恫喝的とも言える語調で主張していたのは非常に印象深いものであった)。


 怨恨の嵐における絶望と希望
 さて、もしも、怨恨を基軸としたこうした世論の構図の描写が的を射たものであるとするなら、この事態を根こそぎ改善するためには、一々問いかけられる質問に真面目に答えるだけでは不十分であることは間違いなかろう。なぜなら、道路行政に対する様々な質問や疑問は、真理の探求のために投げかけられたものなのではなく、怨恨に基づく攻撃に他ならないからである。個々の質問に対する真面目な回答は、個々の攻撃を防御するためには必要であったとしても、攻撃意欲そのものを減退させるものではなかろう。おそらくは、こうした攻撃の勢いそのものを断ち切るためには、まずはその「怨恨」の消滅を目指さねばならぬであろう。そして、そのためには、〈基本的国家了解〉がその人物の精神の根幹に立ち現れることを期待せねばならぬのであろう。
 が、それは多くの場合、困難というよりはむしろ絶望的なことであるように思える――。
 とはいえ、大衆的な気分に満たされながらもその精神の根幹に〈基本的国家了解〉が朧気にでも胚胎しているような人物も中にはいるであろうし、そうでない人物においても、誰もがそうであるようにそのうちに死を迎えることであろう。怨恨の嵐が吹き荒れる下では種々の事態は悪化の一途を辿る公算は高いと言わざるを得ぬとしても、何もかもが根絶やしに破壊され尽くされることさえ回避できるのなら、これからものごころを付けてゆく幾ばくかの人々の内に幾ばくかの〈基本的国家了解〉の芽生えを期することは不可能ではなかろう。そうであるとするなら、希ではあったとしても望みが残されていると言うことはやぶさかではないのであろう。この世論に対して如何に対峙していくかの具体的な実践の形はその場その場の決断を待たねばならぬところであるが、その具体の実践のためにも、その精神が絶望に支配されることを回避することこそが、容易ならざることであるとはしても何よりもまず必要とされていることであるに違いない。