中野剛志著『自由貿易の罠――覚醒する保護主義』(青土社)


 青山さんに続いて。


 危機的状況に突入したリーマンショック以降の世界経済の中で、各国が輸入制限、関税引き上げ、政府調達における国内製品優遇など保護主義的な政策を導入しており、国際会議に終結する各国首脳やメディアに登場するエコノミスト達は、八〇年前の世界恐慌の際に保護主義が世界大戦につながった記憶から警戒心を顕わにし、自由貿易体制を堅持すべしと熱心に説いている。
 しかし著者はあえて大胆に、自由貿易理論の弱点を様々な角度から指摘するとともに、現在の世界的不況を脱出する上ではむしろ保護主義が一つの有力なオプションたりうるということを、種々の学説や事実を紹介しながら示している。


 デフレ対策
 「保護貿易は自国中心主義の危険な政策であり、自由貿易こそが世界の平和と発展に資するのだ」という信念は広く一般に共有されており、私も中学か高校の社会科(歴史)の授業でそのように習った記憶がある。だから、保護主義が有益なのだと言われて抵抗を感じる人も多いだろうが、著者の議論を理解する上で重要なポイントとなるのは、「デフレの克服」という論点だ。
 日本政府も先月「デフレ宣言」を行ったように、現在の経済上の最大の課題はデフレであり、需要の不足である。ところで、著者が指摘するのは、自由貿易はグローバルな価格競争を伴うのである以上、物価の下落圧力が働くという当然の事実だ。そして物価下落は先進国の労働者の賃金を低下させ、ひいては内需を縮小させるという悪循環を引き起こすのである。
 貿易制限は外需を縮小させるので、その限りで一種のデフレ圧力となるのは確かである。しかし「今日、われわれは、ケインズ主義的な内需拡大政策を知っている。それゆえ、内需拡大政策とそのメカニズムを十分に知らなかった一九二〇‐一九三〇年代の世界ほどに、保護貿易による外需の減少を深刻に懸念する必要なはないはずなのである」(二八頁)。
 むしろ、著者が指摘するのは、自由貿易内需拡大政策の効果を減殺してしまうという可能性だ。政府が景気対策として内需拡大のための財政出動を行ったとしても、自由貿易体制下では、その需要によって潤うのが他国の輸出産業である場合があるからである。
 つまり、デフレ対策が主要な問題となっている状況下では、自由貿易は経済の発展に資するどころか、有害ですらあり得るのだ。逆に、各国が保護主義的な措置を講じた上で財政出動を行い、内需を拡大させ、国内経済を成長させれば、その結果として貿易量が拡大することもあり得る。実際、一九世紀から二〇世紀の初頭にかけて、保護主義的な措置を取っていた国々が高い成長率を享受し、貿易量も拡大させていたという事実を著者は紹介している。
 

 自由貿易論の根拠
 自由貿易論の根拠として最もよく知られているのはリカードの「比較優位論」だが、それは「完全雇用」「運送費はゼロ」「各国民の効用関数が同じ(嗜好が同じ)」といった、およそ非現実的な仮定の上で成り立つものにすぎない。また著者は、インドの経済学者バグワティの自由貿易論を理論の洗練度において相対的に高く評価しているが、J・バグワティの議論は結局のところ第二次世界大戦後の一時期に貿易量の拡大と経済成長の相関がみられたという限定的な事実に依拠しており、その因果関係は曖昧であると指摘する。
 著者は、「経済学者たちは、自由貿易が強力な理論的根拠をもつものではないことを承知しており、また、貿易制限がより適切である場合もあることを薄々感じている節すらある」(十八頁)という。それにもかかわらず一般に保護主義が忌避されるのは、結局のところ、市場に介入する政府の能力に対する根強い不信感があるからである。実際に、(政府の役割を重視したバグワティのような例外を除いて)多くの論者の自由貿易論の拠り所は、突き詰めれば、能力の不完全な政府が介入するぐらいならば市場に任せておいた方がまし、という極めて消極的なものなのである。
 そこで著者は本書の後半で、市場に介入する政府の能力は本当に信用に足りないものなのかどうか、そして、その能力を高めるためには何が必要なのかの検討へと進んでゆく。
 

 プラグマティズム
 著者は「産業政策」を保護主義の一形態として扱い、その是非に関する様々な学説を取り上げており、その中には主流派経済学の「幼稚産業保護」論や「戦略的貿易政策」論も含まれている。しかし主流派経済学の産業政策論は、著者に言わせれば市場主義の一形態でしかない。つまり、効率的な市場という前提から出発して演繹的に経済を理解しようとする「合理主義」に陥っており、経済政策の目的を「経済厚生の増大」という単一の基準に還元してしまっているため、現実の経済政策を理解したり構想したりする上では全く役に立たない。
 著者が産業政策のあるべき姿を論じる上で、その中心に据えられるのは、J・デューイらによって打ち立てられた「プラグマティズム」の思想である。それは簡単にいえば、抽象的な「理論」から社会を理解する合理主義ではなく、具体的状況の中に入り込み、「実践」を通じて社会を理解する経験主義を重視する立場である。
 著者のいう「産業政策のプラグマティズム」は、政府が設計主義的に市場活動に枠をはめて規制するという活動ではなく、民間主体と協調しながら産業活動に参入し、個別具体的な問題の理解に努め、その解決策を探求する中で、経済社会に関する新たな知見を獲得し、後の政策にも活用していくという一連のプロセスである。理論に基づいて実践し、所定の目的に応じた手段を選択するばかりではなく、実践の中で理論を鍛え上げ、手段を実行する過程でより適切な目的(目標)を設定し直すという、理論と実践、目的と手段の相互作用を重視する立場である。
 実際、著者は経済学者によるいくつかの分析を紹介して、かつての通産省による産業政策が、民間企業に対する一方的な指導ではなく、様々な利害関係者の間で合意形成を行うための「媒介」の役割を担っていたのであり、問題解決のためのコミュニケーションを促進する活動に他ならなかったのだと論じている。
 このような政府の活動を、「政府の能力は不完全である」との理由で排除するのはばかげている。政府も民間もともに不完全な能力しか持たないのだ。政府は、民間企業と協調して産業活動に参加することで社会的紐帯の中に埋め込まれつつ、特定の利益集団の政治的圧力に屈しないよう一定の自律性を確保しながら、問題解決のノウハウを蓄積し、その能力を向上させていくべきだと著者は言う。
 
 ドグマから自由な議論
 本書の議論から我々が学ぶべきことは多い。
 第一に、「デフレ」という、現在の経済社会が陥っている危機の本質を直撃した議論であるということだ。デフレの脅威は俄かに広い議論を惹起していて、たとえば「緊縮財政論(財政再建論)」が一種のドグマとして我々の思考を縛っており大胆なデフレ対策の実行を妨げていることについては、何人かの論者が批判を行っている*1。ここに著者が、「自由貿易論」というもう一つの巨大なドグマを批判対象として付け加えたのは、非常に新鮮で刺激的だ。
 第二に、この間の「行政改革」を通じて政府の無能力化が推し進められようとしている中で、「プラグマティズム」の思想を論じ、政府の活動の意義を理論的に捉えなおしていることの意義は大きいだろう。
 そして第三に、著者の指摘するとおり「自由貿易」という強力なドグマが今崩れ去ろうとしているのをはじめとして、今後経済に関する常識は大きく転換する可能性があるということだ。イギリスの経済誌エコノミスト』が7月に、「過去三十年間の英米マクロ経済学の訓練はまったく時間の無駄であった」「現代のマクロ経済学の訓練は深刻なハンディキャップに他ならなかった」「ケインズらの智恵が過去七十年の間にすっかり忘れ去られてしまった」といった議論を紹介し、今回の経済危機を受けて経済学の歴史がリセットされようとしていることを示唆する論説を掲載していた*2。要するに、我々が長らく聞かされてきた経済学のウソが誰の目にも明らかになりつつあるのであって、ようやく、合理主義的経済学のドグマから自由になって思考することが可能になる(かも知れない)のである。そのとき、著者のいう「合理主義」のモデルから抜け出せずにいる者と、モデルの前提を「プラグマティック」に問うことのできる者との間には、決定的な差が開くに違いない。
 既存のモデルやドグマを疑い、通説に外れた議論を恐れずに展開してみるには絶好の機会がやってきたということだ。そして本書こそ、まさにその大きな象徴であると言えるだろう。

*1:著者中野氏も、たとえば2009年11月5日付毎日新聞紙上で「国債は『ツケ』ではない」と題して論じている。

*2:http://www.economist.com/displayStory.cfm?story_ID=14030288