土地と人間(後半)「よかよか」と「しゃーないなぁ」


 前号では、筆者が九州に対して特殊な思い入れを抱いていることを述べた。そして、その思い入れの内実を述べるためにまず、筆者が関西で生まれ育ち、現在東京に居ることを述べた。その中で、「大阪のおばちゃん」という抽象概念を引き合いに、東京に各種のコミュニティがあるものの、「地域」に根ざした伝統的コミュニティが希薄であることを指摘した。一方で、関西では「大阪のおばちゃん」なる存在を誰しもが「是認」するところに現れているように、土地に根ざした地域コミュニティが存在していることを述べた。ここに言う、「大阪のおばちゃん」とは、前号の説明を再掲すると、次のような存在である。“概して恐ろしく傲慢で、身勝手な存在である。典型的には、電車の中では傍若無人に振る舞い、「着座」するためには周りを顧みずに驚くほど素早く座席に移動する。他者の状況など全く意に介さず、誰にでもやたらと話しかけ、干渉し、一人でけたたましく笑う。そういった利己的行動を繰り返す存在。”
 筆者には、こうした、小さな「悪」をどう取り扱うのかが、その地域コミュニティのあり方を考える上で、重要な鍵を握っているように思えた。なぜなら、こうした小さな一例に、そのコミュニティが、善悪の問題に対してどのように対峙しているのかが現れているからである。この点から考えれば、関西は、コミュニティと社交と地域的一体感を保ってはいるものの、人々の内にある悪をそのままの形で是認する傾きが強いように思えるのである。これでは、地域コミュニティを保持したとしても、善きものが駆逐されてしまいかねないのであり、地域コミュニティが存在することの意味そのものが失われかねない危惧もあるように思える。だとするなら、コミュニティを保持しつつも、「悪」を排し「義」を通す方途があるとするなら、それが最も望ましいに違いない。このような土地の具体的な姿を、筆者は、「九州」に見たのであった。
 以上が、前号で述べた概略である。以下、なぜ、「九州」にそのような可能性を感じたのかについて、述べることとしたい。


 たとえば、関西においては、「大阪のおばちゃん」的な存在を「しゃーないなぁ」と言って是認する。しかし、おそらくは、(塾生通信八月号の平坂君の原稿を読む限り)九州では、「よかよか」と言って是認するのではないかと思う。この二つの言葉は、「是認」するという点では、共通しているものの、「しゃーないなぁ」という言葉には、明らかに「嫌悪の念」が含まれている。しかし、「よかよか」には、そうした感情が含まれているようには思えない。
 「しゃーないなぁ」と、是認されながらも、一部に「嫌悪の念」を表明されつづければ、「別にかまへんやん」と、おばちゃん本人が開き直らざるを得ないようにも思う。そして、「大阪のおばちゃん」は、「しゃーないなぁ」という言葉によって是認されつつ嫌悪の念を示される度に、「大阪のおばちゃんらしさ」をますます増長させていくように思う。おそらくは、「大阪のおばちゃん」は、そういう構造を経て、大阪周辺の地であちこちで育てられているのではないかと思う。一方、彼女が「よかよか」と毎日言われ続ければ、最初は、増長するのかもしれないが、その内どこかで「羞恥」の念を催すのではないだろうかとも思う。これはなぜなら、「よかよか」と言っている本人も、それを聞いている人々も、そして、それを言われている「大阪のおばちゃん」本人も、たとえば電車の中で着座するために浅ましく振る舞う行為が決してほめられた行為ではないことを内心では理解しているからである。いわば、「よかよか」は「しゃーないなぁ」よりも、その場において許すことを通じて、次回に適切に振る舞う可能性が幾分なりとも向上させる効果を持つのではないかと思えるのである(ただし無論、体力の劣る女性が先に座るのが当然のことでもあるのだから、「よかよか」と言われて、おばちゃんが座り続けて居ても一向に問題はない。ただし、おばちゃん同士が座席を奪い合ったり、場合によってはおばちゃんが品の良い老婆よりも先に着座しようとするのは、やはり、いかがなものかといっても差し使えないのではないかと思う)。
 さて、「よかよか」という寛大な態度は、一面においてある種のリスク(危険)をはらんだ態度であることも事実である。なぜなら、「よかよか」といって許したが故に、増長してさらなる悪事が生じてしまう危険性も存在するからである。たとえば、「大阪のおばちゃん」の行為を見過ごしたが故に、本来なら止めることができたはずの、彼女によるより大きな迷惑が他者に及んでしまう、という場合もあるだろう。そうした場合、「しゃーない」と言った人間は「ほれ見てみぃ」と言って、その本人に責任の全てを、他者に転嫁して済ますこともできるが、「よかよか」と言った人間は、「よかよか」と許容したことに対する責任をとるべく、自らでその後始末をする傾きが大きいようにも思える。
 そうであれば、「大阪のおばちゃん」は、ひょっとすると、その「よかよか」と言ってのけ、そして最終的に後始末をしたその男に対して、「感謝と敬意」をその内抱くことも十分にあり得るのではないかとも思えてくる。自分を許したにも関わらず、自分はその期待を裏切ってさらなる悪事をはたらいてしまった、にも関わらず、その後始末をとる懐の深さを、どこかで感じざるを得ないのではないかと思うのである。ここに、「感謝と敬意」なる概念は、「大阪のおばちゃん」なる抽象概念が主観的に持つことがほぼ想像できないような概念である。言うならば、「大阪のおばちゃん」が「大阪のおばちゃん」たり得るのは、他者に感謝や敬意を抱かないが故である、とも言えるのである。
 ところが、「ほれ見てみぃ」と言われれば、「大阪のおばちゃん」は、「やかましわぁ」と反発し、より一層「大阪のおばちゃん」らしくなっていくように思える。すなわち、「大阪のおばちゃん」が「大阪のおばちゃん」たり得るのは、「大阪のおばちゃん」の中に含まれる「悪行」(多くの場合他愛もないものではあるが)に対して、周りの人々が「是認」と「嫌悪」の念を含む「しゃーないなぁ」という気持ちを抱いていることが前提なのではないかと思えるのである。ところが、九州において「よかよか」と、「是認」と「今後の期待」をかける言葉をかけられ続けていれば、「大阪のおばちゃん」の中にある「悪」が徐々に浄化されていき、あげくに、「大阪のおばちゃん」は「大阪のおばちゃん」では無くなるのではないかとすら思えるのである。
 これは何とも素晴らしい方法ではないかと思う。いうまでもなく、東京のように、コミュニティを断絶した上で、悪をあっさりと切り捨てることをもってして悪を浄化していくというシステムとは根本的に異なっている。そればかりではなく、関西のように、コミュニティを保持するが故に、人々の中にある悪を浄化せずにそのまま許容してしまう社会とも異なっている。すなわち、九州とは、誰しもが悪を持つという事を前提としつつ、万人をコミュニティの中に取り込み、その悪がその内浄化するであろうことを信頼することを通じて、その悪が浄化されていくことを期待する社会なのではないかと思えるのである。しかも、是認することでかえってその悪による被害が甚大なものとなったのなら、その被害の後始末を何らかの形で、是認した本人が進んで行おうとするのである――。


 筆者は、九州にしばしば赴くことがあるのだが、住んだ経験はない。それ故、以上に記した内容は全て、「全くの想像」にしか過ぎない。そして、全ての九州の人間が上記のように振る舞い、全ての関西や東京の人間が上記のように振る舞うのかと言えば決してそうではないとも思う。しかしそれでもなお、九州の「よかよか」という言葉の響き、関西の「しゃーないなぁ」という言葉の響きには、それぞれの土地の社会と風土のあり方が色濃く表れているのではないかと思えるのである。
 しかも、例えば伝え聞く西郷隆盛とは、まさに、悪そのものに対して憤怒の念をいただきながらも、悪をなした「人」を「よかよか」と許し、その人に巣くう悪が将来において浄化することを期待し、そしてそれにも関わらず、許し難い悪行がなされたならばその始末を自らつけようとした男であったように思う。内村鑑三が「代表的日本人」の第一番目の人物として著し、そして多くの日本人が愛し続けた西郷は、まさに、そうした人物なのであった。そして、西郷隆盛のみならず、筆者のわずかな個人的な経験の中でも、そうしたたたずまいを、九州の人の内に頻繁に見るのである。
 中には、なぜ、土地と人物がそれほどに関連するのかと疑問を持つ人もいるのかもしれない。しかし、本稿の前半でも触れたように、コミュニティと共に生きるということが、人間の基本的な条件なのである。その意味において、人間は「個人」(インディビドゥアル)という明確な輪郭を持つような存在では決してない。人間とは、半身において個人の顔を持ちつつも、その残りの半身はその地のコミュニティに溶解しつつ繋がっている存在なのである。それはちょうど竹林が無数の竹の林のように見えて、実のところ根では全て繋がった一つの植物であるようなものである。そして、地縁に根ざすことではじめてコミュニティが安定を得、独特の風土を湛えることができるのだとしたら、一人一人の人間のたたずまいはその地のたたずまいそのものとならざるを得ないのである。新渡戸稲造が「武士道」の中で、武士道というものを日本の風土に生えた草木に例えたように、我々一人一人は、それぞれの地に生えた草木なのである。その草木が、その地の風土と無縁である事など、あり得ないのである。


 筆者は、関西で生まれ育った人間として、九州という土地に対して他者として対面する。そして他者として、以上のような九州という地に対して、ある種の思い入れを抱いている。しかし、その反面において、同じ日本に生まれ育った人間として、あるいは、この日本という風土の中の一本の草木として、今の日本を善かれ悪しかれ共に形作っている存在でもある。それは無論、筆者にのみ、当てはまることなのではない。誰しもが、この日本の地に根ざす草木である以上は、九州という地に根ざしたあまたの草木と共に、それぞれの地でそれぞれの役割を担いながらこの日本を形作っているのである。そうであればこそ、九州という地は、日本のどの地からしても、決してよそよそしい異国なのではない。そしてそれ故に、誰しもが、多かれ少なかれ九州で営まれているコミュニティのあり方を肌で理解することができるに違いないのである。だからこそ、内村鑑三は、先にも引用したように、九州男児たる西郷隆盛を、「代表的日本人」の第一人目の人物として挙げたのである。
 言うまでもなく、健全なる日本を目指しているとするなら、その地に生える一つ一つの草木そのものの健全さの増進を目指すことが何よりも先決である。その時、コミュニティ無き社会では、草木は根を張れず脆弱にならざるを得ない。ただし、コミュニティがあったとしても悪しきものを浄化しようとせぬ社会では、いくら草木に根が生えたとしても健全なる草木が育っていくことは難しい。そうであればこそ、九州の地で営まれているであろうようなコミュニティのあり方に、健全なる日本を目指すヒントが隠されているように思えるのである。そしてそのあり方は、先にも指摘したように、「日本人」であるのなら、必ずや了解可能なものに違いない。無論、学ぶべきものが九州の地にのみ存在するということをここで主張しているのではない。しかしながら、少なくとも、健全なる日本を目指している日本に根を張る「草木」であるのなら、一度くらいは、九州の「草木」のあり方に触れてみるのも決して無駄なこととはならないであろうとも、思えるのである。