山路愛山研究(その一) 共同体の思想家・山路愛山


 これから機会があるごとに、山路愛山の思想と、明治思想について書いていきたいと思う。


 一 国家は死者と子孫を含めた悠久の生命体だと述べた柳田國男
 最近は、格差社会という言葉をよく耳にする。主に、経済的な豊かさ、貧しさといったように貧富の固定化について述べたものであろうが、これは一種の共同体の危機であるのは、紛れもない事実である。格差社会の到来といったテーマは、平等を建前にしてきた戦後社会ではあまり問題になってこなかったが、平成改革においては、戦後長らく続いた〈結果の平等〉が捨てられて、自己責任を重んじる〈機会の平等〉の社会になった。すると、どうしても最初から力のある者が、どんどん自己の勢力を拡大していくのは自然の流れであり、弱き者は半永久的に強き者に食われ続ける社会となる。建前として、機会はみんなに平等に開かれているとはいえ、それは幻想であり、簡単に言えば、市場により近くそして金を持っている者が、市場に遠い人間、金が少ししかない者よりも現実的には何倍も有利である。
 今日の格差社会の到来は、こうした背景から来ている。弱き者、日雇い労働者的なワーキングプアの若者が、一度、ネットカフェ難民になってしまえば、そういう環境から抜け出ることは容易でない。「そんな境遇に陥ったのは、君たちの、自己責任だよ」といって彼らを見捨てる社会となった。彼らからすれば、当然、家庭を持つなんてことは、遠い夢にすぎない。国家にとって、また人間社会にとって最も基本的な組織体である家族が破壊されている現状は、まことに恐ろしい事態である。これを共同体の危機である、と捉えないほうがおかしい。共同体社会を壊して、個人主義的で、唯物主義的な社会を招来したのが、平成改革の本質であろう。
 では一体、国家の本質とはそもそも何なのか、それについて明治三五年から三六年、中央大学の講義において、農政にたずさわっていた柳田國男は、以下のように述べている。


 「国家の行為即ち政策にして其結果を甲者の注文に合し乙者の注文に背くへき場合は多くなれり、或は此の場合には多数者の利益とする所を以て又国の利益として可なりというものあれと、其果して国民多数の希望に合するや否やを知ることは難し、又少数者の利益を無視するも謂れなし、加之(しかのみならず)国家は現在生活する国民のみを以て構成すとは云い難し、死し去りたる我々の祖先も国民なり、其希望も容れさるへからす、又国家は永遠のものなれは、将来生れ出つへき我々の子孫も国民なり、其利益も保護せさるへからす。要するに所謂輿論なるものか若し各人自己の利害より打算する説ならは、政策は必すしも其赴く所に従ふを要せす、各人の利害相反し、相容れすと見たる場合には、別に自ら其手段の可否を決すへき標準を立てさるへからす、是れ経済政策の学問か一箇独立したる地位を有し得へき所以にして(以下略)」(注:原文はカタカナ漢字交じりであるが、便宜上直した)。
 要するに、国民とは、生きている者だけではなく、死者、子孫の総合だとするものである。国家とは、生命体であって、この三者による永続的存在だ、ということであり、その帰結として、現在の政治決定は、生きている者だけの特定利害の標準で、勘案するのは間違いであるということだ。
 彼はまた、「未来に生息すべき国家の全部も亦他人と称すべきものにして、現在の人民が其権利を行なうによりて損害を受くることを拒み得るものなり」(全て『近代日本政治思想の諸相』橋川文三より)といった発言もしており、生きている者による現在の政治行為により、将来へ継承されていく共同体に深刻な被害を与えかねない暴政は、掣肘しなくてはならないといった理想であろう。ここでは、あたかも、生きている者より、観念上の子孫といった存在のほうが重いといった如き感想を持つ。柳田の根底にある情念は、近代化の趨勢に抵抗した辺境の民の文化や信仰といったものが存在したから、共同体の本質が、近代主義という名のもとに都市化された空間や唯物主義、刹那的な生の感覚により脅かされている現実を座視できなかった。そういった背景がこうした発言にあったようである。
 一連の柳田発言に注目した橋川文三は、あたかも、エドマンド・バークの政治思想を想起させるものであると述べ、柳田農政学は「一国人生の総体の幸福」を追求する立場だ、と評している。このような、見事な柳田の発言をすくい上げて、彼の政治思想を高く評価する橋川の姿勢もまた流石であった。


 二 近代日本の国体論
 柳田の言葉で分かることは、明治という時代には、我々が想像し得ないほど遥かに深刻に、共同体とは何かが問われていた、主要な関心事となっていたのである。近代主義という、民主主義化、資本主義化、都市化、といった現象と無縁ではない。したがって、柳田が活躍した明治における国体論について考えることが、今日の我々が研究すべき共同体論の参考になるのではないかと思われる。「全ての真の歴史は現代史」(クローチェ)なのであり、現在の我々の興味に関わらないようでは、一体何を歴史から学ぶのか、といった問題意識不在の歴史学に堕落する。歴史は、当然過去のことでもあるから、その全てを現在の問題意識と一緒にして捉えることは不可能であるのは承知であるが。
 国体とは国の無形の形である。建国以来連綿と保守されてきた価値観であり、これからも我々が継承していかねばならぬ理念でもある。そうなると、伝統ある万世一系の皇室を中心とする世界が、国体論の中核となってきたのはいうまでもない。しかしながら、ここで注意しなければならないのは、近代以前の国体の意味は今日我々が考えているようなものではなく、せいぜい、国の組織や形態、国家の対外的体面といった意味しかなかったものであったが、近代になりいきなり変容して、天皇を中心とした民族固有の価値観に根ざす特殊性といった概念になったことであろう。会沢正志斎(天明二年〜文久三年〔一七八二〜一八六三〕)の『新論』は、西洋列強の日本侵略の危機を説き、尊皇攘夷の志士に大きな影響を与えた、国体論の先駆けといえるが、ここで顕著なように、対外的脅威が迫っているといった政治状況の認識と、それに比例して浮上する日本民族といった観念、またそれらの帰結として民族の力の結集といったことは、ワンセットであった。したがって、国体論の始まりは、共同体論そのものであった、と考えなければならない。
 共同体は群れを作る動物である人間の歴史とともにあるが、個々の小さな社会組織といったものではなく、近代における、国民国家という「大きな物語」を中心とした共同体では、どうしてもバラバラの個人を接着する接着剤のようなものが必要で、そこで普遍性を持った、国体論が要請されるということになる。日本の場合は、古代より勤皇思想が伏流する通奏低音のように存在したため、近代国家の創出が非常にスムーズにいったのである。私はこうした思想を用意した江戸時代こそが、近代日本の始まりと考えている。わが国には、もともと国民を統一せしめる、原理が古代から存在した。近代化と、皇室の存在は無縁ではない。
 問題なのは、皇室の存在という大前提は、国体論者一般に共通するものであるが、そこから先の解釈なのである。キリストは神なのか、人なのか、といった西洋の神学論争みたいなものか。国体論の中から、国民の社会構造をどのように把握するか、国民と皇室の関係はどうなのか、といった解釈の差異が論者により当然出てくるのは避けられない。国体についての解釈論争が、加藤弘之井上哲次郎内村鑑三山路愛山、などが中心となって、明治に起こっている。そこで交わされた議論の印象では、臣民が皇室に絶対的な崇拝を誓うべしといった国体論か、国民が皇室を崇めながらも、皇室も民を思い続けた歴史があると強調した国体論があるようだ。前者は東京帝国大学教授の井上哲次郎安政二年〜昭和一九年〔一八五五〜一九四四〕)などが代表するといってよいし、後者がこれから紹介する山路愛山の立場であったといえよう。


 三 山路愛山は、皇室と平民の関係に平衡を持たせようとした思想家
 国家の統一原理を重んずるあまり、盲目的に、絶対的な天皇崇拝を行う者がいた。そこで、皇室と平民の関係は、皇室が一方的に存在するのではない、平民と皇室は一心同体なのだ、といって両者の間にバランスをとった思想家が、山路愛山(元治元年〜大正六年〔一八六四〜一九一七〕)であった。彼は在野の史論史家にして、国家社会主義思想を打ち立てた思想家であった。史論史家とは、歴史をもっぱら実践的関心に基づいて研究しようとする傾向が強い者をいう。彼の日本史研究の実践的関心とは、国家社会主義思想の構築に収斂するものであった。愛山は、日本歴史の総体を、古代から現代までに渡って俯瞰し、実に多くの著作を残した。生前に残した著作は、五〇冊以上あるといわれる。全集は出版されていないが、筑摩書房から『山路愛山集』が出ている。
 彼の、「史学の能事は古を以て今を論じ、遠きを以て近きを語るに在るのみ」(「史学論」)という信念は、先のクローチェの言葉とも重なるところがあり、過去を現在と同一視する傾向は、未来の日本はこうあるべきだ、といった理想と深く結びついていた。彼の行った、日本歴史の通観作業は、日本民族の不変のアイデンティティーの考察でもあり、日本的な国家及び、共同体の法則の発見でもあった。どのように歴史は動いてきたのか、日本民族の社会構造は何か、日本の歴史を動かす主体とは何か、といった問題意識が常に彼の史論には流れていた。
 彼は明治三八年に、『国家社会主義梗概』において、独創的な国家論を世に問うた。彼によると、社会には〈国家〉と〈紳士閥〉と〈平民級〉が存在するという。これを社会三元論と呼ぶ。そのうえで、〈労働者〉と〈国家と紳士閥〉の合体した二級しか存在しない社会主義思想を徹底的に批判した。搾取と被搾取の関係しかない社会は、社会主義者による歴史性に根付かない理論であり、実際には存在したことがないとした。日本史は、国家と紳士閥と平民が争いや調和、共同生活を実現してきた歴史を有するという。まさしく、日本史研究から来たその結論が、国家社会主義思想なのである。
 山路は、紳士閥が様々な面で平民級の存在を圧迫するならば、「富豪の兼併を抑ふべし」であって、国家は、平民の側に立って彼らの利益を守らねばならないと述べた。国家は古代から連綿と続く日本歴史の法則、すなわち「国体」を内包していなければならないということだ。これが、彼の考える、国家社会主義政策なのである。
 愛山によれば、日本の国体は一大家族である、「共同生活は日本王道の根本義」なのだ。その宗主は皇室であり、「皇室は人民の父母」という。「百姓飢饉に苦しみ加ふるに疾疫を以ってし死亡数多なり。朕これを念ふ毎に情傷惻に深し」といった天応元年の詔など、数多くの古代の詔に示されている通り、民を思う姿が皇室の本質であるとした。類似の家族国家論は明治から敗戦まで存在したが(石田雄や松本三之介の研究に詳しい)、山路の場合は、どこまでも皇室と平民(すなわち国民)がいた。平民なくして、皇室も国家もないのである。愛山における「平民」観念が、柳田の指摘から外れて、生きている者だけを指すのでないのは、いうまでもない。それは自由主義や、個人主義を徹底的に批判して(『現代金権史』など)、現在の個人の利益にうつつを抜かす人間を批判していることからも明らかである。
 今の、保守派と称する者たちが、愛国と叫んで、国民の生活に一向鈍感な傾向を、山路愛山の目には、どのように映るのであろうか。