『国力論――経済ナショナリズムの系譜』(中野剛志氏著、以文社)を読んで


 「経済ナショナリズム」の思想
 本書は、マルクス経済学と経済自由主義の陰に隠れて異端扱いされてきた「経済ナショナリズム」の理論の系譜に、光を当てなおす試みである。経済政策は「国家」政策であり、経済学はその政策に示唆を与えるべきものであるはずなのだが、方法論的個人主義を採る近代の主流派経済学の中には、「国(ネイション)」の概念そのものが見当たらない。それに対する「経済ナショナリズム」とは、著者によれば次のように主張する理論である。
 第一に、経済政策や経済理論は、国富そのものよりも国富を生む「国力」の増進に関心を注ぐべきである。それらの目的は、個人の経済厚生の向上や資源配分の効率性にではなく、「ネイションの力」の形成・維持・増進にある。
 第二に、経済は、それ自体が独立した自律的なシステムなのではなく、ネイションの中に埋め込まれており、政治・社会・文化と密接に関連することによって、ネイションごとに多様な違いを見せている。したがって、経済システムのありようを理解するためには、良識・経験・実践知を背負って社会そのものを総合的に解釈する、「解釈学的アプローチ」が必要である。また、経済の進歩を促すためには、政府の政治的な活動力によって社会の秩序を形成し、将来の不確実性を低減することが不可欠である。
 第三に、経済発展のためには国民統合が必要である。安定したネイションこそが自由な秩序を保つのであり、それは経済発展に不可欠の条件だからだ。また逆に、経済の発展と多様化は人びとの相互依存を深め、コミュニケーションを活性化し、国民統合を強化する。経済発展と国民統合は、相互依存関係にあるのである。


 修正される経済学説史
 著者はまず、経済ナショナリストの二大巨頭であるA・ハミルトンとF・リストの経済理論を、彼らの置かれた歴史的・地政学的状況をたえず確認しながら、詳細に検討してゆく。アメリカ建国の父の一人であるハミルトンも、アメリカの経済発展と「国力」に感銘を受けてドイツ国民統合のために奔走したリストも、ともに右のような「経済ナショナリズム」の立場から経済理論を構築していたのであった。
 続いて、こうした経済思想を唱えた二人の思想家が、D・ヒュームの哲学および政治経済学の正統な継承者であり、ヒュームの思想こそが「経済ナショナリズム」の源流であることが明らかにされる。ヒュームは、一般的にはA・スミスと並んで経済自由主義創始者と目されているが、著者はその通説を明快に斥けて、二人ともに経済ナショナリストであったと主張する。そしてヒュームの思想を綿密に検討し、彼が、人間と社会を研究するためのほぼ唯一まっとうな方法論としての、「解釈学的社会科学」を打ち立てていたことを明らかにするのである。
 私にとって最も新鮮な驚きに満ちていたのは、第三章の、G・W・F・ヘーゲルの『法哲学』を経済ナショナリズムの書として読解する試みであった。著者によれば、ヘーゲルはヒュームの思想を継承して、「解釈学的社会科学」の王道を歩んでいたのである。ヘーゲルによれば近代経済とは、近代国家の法制度によって自由の権利を与えられた「主観的意志」が、「欲求の体系」の中で他者と社会的関係を結びながら演じているダイナミズムである。このダイナミズムが複雑化するに従って、「不確実性」の増大や、分業による「仕事の抽象化」によって有機的な調和は失われてしまうが、それを防ぎ、個人を社会的・倫理的な秩序へと再統合する役割を果たすのが、政府の政策であり職業団体であるとヘーゲルは論じた。そして、そもそも主観的意志の権利を保障する近代的な制度自体が、歴史的時間の中で形成された共同体(つまりネイション)に支えられなければ成り立ち得ないというのがヘーゲルの見解であった。
 驚きはさらに続く。著者は、新古典派経済学の代表的論者の一人とされるA・マーシャルの理論も、通説に反して経済ナショナリズムの理論であると解釈するのである。マーシャルは経済発展の国ごとの比較研究や、歴史研究をきわめて重視していた。そして、原子論的個人ではなく社会的存在としての人間を前提にしなければならないと考えて、国ごとに多様な産業資本主義を、(貨幣への信頼、協同組織、学問や教育の制度などを含む)ナショナル・システムとして描き出したのである。マーシャルが経済自由主義イデオロギーから程遠いところにいたことは、彼が「経済騎士道」と名づける国民的倫理を基礎にした「真の社会主義」を唱えたことに端的に表れている。
 ヒュームからハミルトンやリスト、ヘーゲル、そしてマーシャルへと至る経済ナショナリズムの思想は、近現代の経済学においては異端視されることになった。しかし二十世紀に入っても、「国家的自給自足」のための経済政策の必要を唱えたJ・M・ケインズや、経済政策は各国のナショナリティを無視した普遍主義的なものであってはならないと論じたJ・ロビンソンや、経済発展と経済統合を実現するための福祉国家ナショナリズムなくしては成立しないと論じたK・G・ミュルダールや、ネイション・ステイトを単位とした経済成長の研究を確立したS・S・クズネッツなどのように、経済自由主義に抵抗して「ネイション」から経済を理解しようとした経済学者たちが、少数ながら存在していた。ただし、残念ながら彼らの思想も、とくに八十年代以降の主流派経済学や政策担当者からは、無視も同然の扱いを受けることになってしまったのであった。


 国力論と保守思想
 本書の成果には、重要な意義が少なくとも三つあると私は思う。
 第一に、経済学および経済思想の学説史を大きく覆していることである。スミスやマーシャルは主流派経済学の代表的な論者だと一般的には理解されているし、ヘーゲルなどはそもそも、哲学の文脈を離れれば、マルクスに影響を与えた全体主義のイデオローグとして取り上げられるのがせいぜいだ。著者も言うように、本書の成果によって経済学説史は大幅な修正を余儀なくされるのである。
 第二の意義は、現代の日本と世界が置かれた、危機的な時代状況を突破するための道を示唆していることである。著者は最終章で、日本のナショナリティを破壊し続けてきた「構造改革」と、その背後にある経済自由主義イデオロギーこそが現代の危機と混乱を招いたのだと厳しく批判し、「日本の国柄(ナショナリティ)を保守するための改革」を今こそ実行しなければならないと言う。そしてそのための理論的な根拠となるのが、経済ナショナリズムの思想なのである。
 そして第三に、私が最も重要だと思うのは、本書を通して「保守思想」が取り組むべき実践的な課題が明確に見えてくることである。
理論においても実践においても「ナショナリズム」こそが必要なのだとして、では、現代日本の社会にどのようにしてナショナリズムを適切な形で定着させることができるのか。本書の示唆を踏まえると、次のように考えられると私は思う。
 第一に、人間と社会に関する支配的な学説の欠陥を、理論的・実証的に分かりやすく指摘すること。
 第二に、「ここにもあそこにもナショナリズムが息づいているではないか」というふうに、具体的な事例を挙げながら、ネイションの存在を浮かび上がらせていくこと。「ポストモダン」と言われる現代にあっても、人間が歴史共同体の枠組みから抜け出てなどいないことを明らかにするのである。
 そして第三に、現代人が切実なものとして議論している諸問題──たとえば若年層の雇用問題、エネルギー・食糧などの資源問題、そして社会保障費の不足の問題など──について、それらが「ナショナリズム」や「国力」の視点を抜きにしては解決不可能であることを、具体的に分かりやすく論じていくこと。
 本書は、これらを実行するための土台を準備してくれているし、これらはそのまま、「保守思想」が今取り組むべき実践的な課題でもあるのである。


 「力の構造」とネイション
 本書は「国力論」と銘打たれているが、このタイトルには本書のエッセンスが見事に集約されている。本書は、「国」の理論であるとともに「力」の理論なのだ。近代経済学は、基本的には価値の「交換」の理論であって、価値が「創出」される現場を無視することで成り立っている学問である。西部邁塾長もかつて、「民間活力」というスローガンをエコノミストたちが声高に叫んでいたとき、経済学の理論の中に「活力」の概念が(少数の例外を除いて)存在しないことを指摘していた。
 本書の著者・中野氏も、価値の交換プロセスの構造のみならず、価値を創出する「力」そのものを直視することの重要性を繰り返し指摘している。そして、「力」の構造を検討し、その源泉を尋ねてみれば、歴史的存在としての「国」の姿が浮かび上がってくるというわけである。
 そういえば、六十年代から八十年代に流行したポストモダニズムも、記号の静態的な「構造」の分析から、構造のダイナミックな変化を生み出している「力」の分析へ移ることを主張していた(浅田彰の主著のタイトルは『構造と力──記号論を超えて』であった)。しかし結局のところポストモダニストは、「力は無秩序である」と結論付けてお仕舞いにしてしまった。
 必要なのはそんな安直な結論ではなく、以前この「発言者塾」で西部塾長が指摘していたように、人間の「活力の構造」を明らかにすることなのであり、また本書の著者・中野氏が言っているように、解釈学的方法と歴史学的方法によって「力」が生み出される様子を描き出し、そこに浮かび上がってこざるを得ない「ネイション」というものの姿を適切に捉えることなのである。