荻生徂徠と日本史固有の近代について――統一的原理と多様性

 一 定型化された「近代論」の陥穽
 江戸期を中心とした日本思想史研究の泰斗である東京大学名誉教授尾藤正英は『日本文化の歴史』の結論部において以下のようなことを述べている。「日本の将来に新しい展望を開く可能性があるとすれば、(中略)『西洋化』の弊害を正視し、西洋化以前の伝統に基づいて、新しい日本のあり方を構想するところから着手しなければならないのではないかと思われる」と。
 ここで使用されている「西洋化」とは何か。尾藤は日本史を戦国以前と以後で二つに分け、「古代」と「近代」の二つとしている。極めて大胆な学説といえよう。文明史的な視点がないと、このような日本史を大枠で捉える発言は生まれてこない。
 尾藤は、近代についても二つに分け、安土桃山時代・江戸時代から日本は「日本史の固有の発展から」生まれた「日本史固有の近代」であり、明治時代の文明開化になって日本的価値観が動揺を来たす時代を「西洋化」とした(ちなみにこの尾藤説を剽窃したのが『国民の歴史』の著者西尾幹二であった)。ここからは私の勝手な発言だが、明治、大正、昭和の敗戦までを「西洋化」の時代とすると、その延長上に位置するのが、第二次「西洋化(正確にはアメリカ化)」と呼ぶべき戦後の民主主義時代とでもいえようか。つまり、日本史の文脈から考えた場合における近代は、三つの時代に分けられる。
 どうも日本においては近代を論ずる際に一つの定まった形があるようだ。それは昭和一七年九、一〇月号の『文学界』に掲載された「近代の超克」論議にも見える。座談会には河上徹太郎小林秀雄といった錚々たるメンバーが出席していながら、日本史固有の文脈から出来上がった近代という議論はなく、彼らが論じているのは「西洋の近代」の超克である。司馬遼太郎は、後に思い出してこの座談会を読み「日本の近代がない」とクスクスと可笑しかったと語っている(『雑談昭和への道』)。実に鋭い指摘といってよい。
 このような傾向がより露骨になったのは、昭和二一年の戦争直後に発表された丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』からであって、「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家たることに一つの大きな特色がある」という「中性国家」を近代国家のモデルに見立てる議論であった。「ヨーロッパ近代国家」と留保し、他にも近代国家のモデルがありそうなことをにおわせながら、丸山の眼中にあった「近代」はヨーロッパの市民社会だけであったのは疑いいれない。これは敗戦直後の日本人に大歓迎され、西洋文明の末に位置するアメリカなるもので、「国を建てましょう」という動きが加速したわけである。
 そうしたヨーロッパ製の概念を基礎にして日本史を研究するということは「危うい」と述べたのが尾藤であった。尾藤は古代・中世・近代という時代区分は明治初期から定着していたが、これはマルクス主義の世界の発展段階説と関係が深いと指摘し、こうした規定は必ずしも当てはまらないと述べている(『江戸時代とは何か』)。そういう背景もあって、尾藤は日本人の立場からみた日本史は「古代と近代の二つである」と発言した。これはいうまでもなく内藤湖南の『日本文化史研究』での「室町以後が今に通じる日本らしい日本史」という主旨に則ったものであるのは間違いない。他にも尾藤は、ヨーロッパ中世の封建制を想起させるような封建主義という言葉で江戸を考えるのも、江戸時代の人間がこうした言葉を使っていながらも、警戒すべきだとしている。尾藤の近代論こそ「日本史に則った近代論」というべきであろう。
 日本史を考察する際に、ヨーロッパの歴史用語を「参考」にして歴史を考察するのはよい。その国の特性は、他国との比較の視点を通じなければ浮かび上がらない。論者の立場によってそれぞれの立論の方法がある。しかし、西洋近代史で展開された特性はあくまでも「参考」なのであって、それを『近代の超克』の論者や、丸山眞男らが作り上げた風潮のように日本の「近代国家論」にまで適用して議論の骨組みにすることには違和感を禁じえない。また日本の近代を考察する際に、東洋政治学の中心思想であった儒学が、江戸日本においてどのような展開を示したのかといったことにも触れる必要があるわけであって、そう考えるとますます「西洋のものさし」ばかりで日本史をはかることはできないであろう。


 二 なぜ日本では職人が尊ばれるのか――日本的儒学の考える道
 日本史固有の近代としての江戸は大いに評価されてよいのではないか。西洋化以前の日本の固有の伝統観念について、ここでは尾藤の研究を参考に考えてみたい。
 突飛な話だが左甚五郎とは江戸時代初期に活躍したとされる伝説の彫刻職人である。日光東照宮の眠り猫を彫るなど、さまざまな講談で語られるような伝説がある通り、人々の大変な尊敬を集めた。また左だけではなく国宝級の多くの絵巻物を見ても大工をはじめとして、職人らが大変力強く描かれている作品が非常に多い(『松崎天神縁起』、北斎の『富岳三十六景』など)。こうした「職人礼賛」は古来より続く日本の伝統といって間違いがない。
 他方で、朱子学を重んじる中国及び朝鮮では職人は全くといってよいほどに尊ばれなかった。むしろ「賤しい人間のする仕事」として蔑まれたのである。尊敬されたのは形而上学的な思弁能力を持つ学者や官吏と呼ばれる人間であった。だから「貪官汚吏」と呼ばれる存在が幅を利かせることになる。日本と中国・朝鮮ではなぜこのような相違が生じているのか。いろいろ切り口はありそうである。ここでは職業に対する観念の相違に注目するのではなく、「道」という抽象的観念の違いから述べたい。
 極めて大雑把に述べると、朱子学とは宋の時代に士大夫らが担った形而上学であり観念論哲学である。「先王の道」を極めれば「万人が聖人になれる」と説く教えである。「修身・斉家・治国・平天下」というように、個人の道徳の修養を第一に重んじ、それがやがては家をととのえ、国を治め、天下を平らげることになると説いた。一口に言うと士大夫層の中において限定された平等主義であり、個人主義である。「道」という言葉に注目していただきたいのだが、朱子学ではこれは古代の聖人の王(堯・舜など)により作られ、人として行うべき「道」であり、従わねばならぬ規範や法則として確立されている。「道」は一般の人間には絶対的に動かし難いものである。
 これを日本の代表的儒者である荻生徂徠(寛文六年〔一六六六年〕〜享保一三年〔一七二八年〕)は批判し、「先王の道」というのは、「民を安らかにする」(『弁名』)のが根本義である。したがってもっと身近なものであり、誰もが認識でき容易に近づけるのであるとした。
 また、聖人にはいちいちなる必要もなく、勉学すればなれるものではないと説いた。「人が誰も彼も先王の礼楽などを定める権限を握ろうとするのは、僭越でなければ妄想」(『弁道』)なのである。「道」も固定的なら朱子学においては、一つ一つの道徳的価値についても定まっており、仁・義・礼・智・信は五常とされ重んじられ、人間の「性」を構成するとされる。これは「性即理」と見なされ朱子学の根本にある思想となっている。これについても徂徠は批判し、「(引用注:君子は)是にも非にも善にも不善にも、初めから態度をきめてかからないようにするのである。だいたい、物が正しく養われないのは、悪である。適当な位置におかれないのも、悪である。育てて成長させ、適当な位置を占めさせるのは、みな善である」(『学則』)と述べ、事の善悪はその時とその場の情況に応じた判断をすべきであり、共同体の構成員が適材適所について社会を運営していくほうが良いと説いた。ヨーロッパ近代における社会分業論につながる見解であろう。
 朱子学は士大夫層を中心にした学問であったが、徂徠の適材適所論は、士・農・工・商でいえば武士層だけを念頭に置いたのではない。冒頭に述べたような彫刻家や大工といった職人層も含まれているのである。「道」観念はこうした人々にも広がっており実に多様である。そういった点では、国民(こういう言葉は当時はないけれど)的規模のスケールで広がっていたのではなかろうか。確かに職人が聖人になる必要はないであろう。人々が、己の「職分」を追求し、その「道」を築きあげるのが日本人の生き方であって、こうした徂徠の政治学は江戸日本人における人生観に通ずるものがあるのは間違いがない。


 三 日本史固有の近代は多様性と統一性の均衡に成り立つ
 一口に「士農工商」と呼ぶが、これは中国の『春秋穀梁伝』などに現れた古語であり、江戸時代人自身が好んで用いた言葉である。後世の人間が想像するように、江戸幕府が厳格な身分階層を人々に対して強いていたということは後世の歴史家の偏見に過ぎない。また、一概に階級秩序を批判するが「維れ斉しきことは斉しきに非ざるによる」(『書経』)ともいうのであって、社会秩序の維持とは不平等により成り立っていた側面があることを今日の我々は忘却しがちである。
 この時代の人々は個々の階層や身分に所属する意義を、当時よく使う言葉であった「職分」という自覚により支え、己らに与えられた役割を全うし、共同体全体の秩序の安定に貢献したという側面は見落とせない(武士は「軍役」に、百姓は築城や道路河川の修築などの「夫役」などに従事した)。「職分」とは西洋でいうところの「天職」(calling)に近い。実際、「職分」は天の観念に結びついているともされる。尾藤正英はこうした日本的伝統観念が生き生きと存在した時代を包括して「役の体系の時代」と呼ぶ。人々がそれぞれの役割に自発的に任じ、そこに生きがいを見出す時代である。社会全体に多様性もあったが、それと同時に統一的原理(幕府や藩)も存在した社会であった。
 「道」がついている単語を思い起こせば、「武士道」や江戸に確立された「士道」、後の時代にはなるがスポーツにおける「柔道」や「弓道」、そして日本の代表的文化である「茶道」、将棋では「棋道」など枚挙に暇がない。これだけ多様な「道」が存在するのは日本的な光景だろう。日本では職人も尊敬されるわけだ。徂徠によれば「道」はいろいろな場面で現れる「術」である。その「術」とは「それに従って実行すれば、自然に知らぬうちに到達できるものである」(『弁名』)。誰でも簡単に「道」に近づけると考えた点に、徂徠の独創性があったといえよう。この古文辞学荻生徂徠の学問)の立場は、乾隆帝の時代に盛んになった朱子学批判の清朝考証学よりも多少早い。
 繰り返すが、中国・朝鮮が重んじた朱子学における道の概念は古代の聖人が作ったとされる「先王の道」に尽きるのである。これを極めることが聖人への道であり道徳の完成である。しかし徂徠はこれを批判する。先王の道は天下を安泰にする道である。「天下を安泰にするには、自己の修養が根本なのだが、天下を安泰にしようという心がけにもとづく修養でなければならぬ。これがいわゆる『仁』である」(『弁道』)と。自己の修養を先にするのではない。まずもって天下が先に現れねばならぬ。
 自己が先なのではないのだ。徂徠は「人間は社会的動物である」と考えた人である。「群れに入らず孤立して生活できる人間があるだろうか。士・農・工・商は助けあって生活している。こうしなければ生存することが不可能なのである」(『弁道』)。こうした人間観・世界観を備えていたからこそ徂徠は、朱子学において五常の一つに過ぎなかった「仁」を大変持ち上げるのである。彼は「仁義」と並べて理解した孟子のことも痛烈に批判している。仁とは「人偏」に「二」つと書く。いうまでもなく慈愛和親を表す意味であり、「人々を育て、民衆を安らかにする徳」(『弁名』)であり、「人々を群がらせて統一するためには、仁以外ではできるはずがない」という。「仁」とは人々を統一させる原理でもある。
 荻生徂徠朱子学における個人主義臭さを批判し、「人間は社会的動物である」との立場から、人々がいかにして社会における多様性と統一性を保ちながら生きていけるのか考え、またいかにすれば社会は秩序を保てるのかを研究した思想家であったといってもよい。だからこそ尾藤正英は徂徠を「国家主義者の祖型」と呼んだのであろう。国家の統一的原理として徂徠は「祭政一致」を説いた。政治権力の背後には「天」や「鬼神」という非合理な権威の存在していることが重要だからだ。こうした不可知論的世界観は国学に継承していった。
 統一的原理を基礎に置かない多様な価値観が並存する社会は最悪に向かうであろう。それは今日のポストモダンの、サブカルチャー論などの堕落ぶりを想起すればよいことである。江戸日本は二七六もある各藩それぞれが、その地の特産物(陶芸品や醤油など)を作り、異なった学問(朱子学陽明学折衷学古文辞学など)に励んだ。そうした国家規模での多様性がありつつ、外圧などの危機の時代には天皇を中心とする共同体の論理が尊皇攘夷などで浮上し(これは朱子学的でもあるのだが)、統一的原理も保持していた。今の日本には、価値観の多様性ばかり説かれて統一する原理が脆弱である。また統一性とは似て非なる、没個性の画一的社会になっている。これは最悪である。


〈参考文献〉尾藤正英『日本文化の歴史』、同『江戸時代とは何か』、同責任編集『荻生徂徠 日本の名著16』、島田虔次『朱子学陽明学』、荒木見悟責任編集『朱子 王陽明