書評:『自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ』(浅野智彦著、2001年)


 社会学は従来、J・H・ミードの議論に代表されるように、「自己」は「他者」との関係によって形成されるということ、そして「自己」は「I(主我)」と「me(客我)」に分裂することによって「自分自身への関係」をもつことのできる存在でもあると主張してきた。あくまでも「関係」の中に「私」というものが浮かび上がってくるのであって、「私」という実体がアプリオリに存在するのではないという主張は、認識論における「構成主義」の基本的なアイディアでもある。「物語論」とは、大雑把に言えば、この「関係」を「会話による物語」に置き換えたものだと思えばいい。

 「物語」あるいは「自己物語」とは何なのかについて、著者は次のように要約している。第一に、自己物語は「語る自分」と「語られる自分」という「二重の視点」を持っている。第二に、無限に複雑であるはずの「生きられた現実」から重要な出来事や解釈だけを選び出して、時間軸に沿って配列し、構造化している。そして第三に、自己物語というものは「他者」に納得のいくものとして受け入れられることで、初めてリアリティを得るものである。



 1950年代のアメリカで、「家族療法」という心理セラピーが試みられ始めた。患者が抱えている心理的なトラブルを、患者個人ではなくその「家族関係」に介入することによって治療するというものだ。家族を一つの「コミュニケーションシステム」と捉え、問題はそのコミュニケーションのパターンから生じていると想定し、そのパターンを変化させることによって問題を取り除こうとするのである。

 で、この家族療法の方法論に、80年代末から90年代にかけて大きな変化が起こった。このとき現れたのが「物語論」である。セラピストは、患者が交わす「会話」の中に、患者の抱いている「自己物語」の筋を読み取る。そして、話し相手としてその物語に参加しながら、患者にとってより苦痛の少ない、新しい物語が生まれるチャンスを探すのである。

 トラブルを抱えた患者の語る自己物語は、「生きられた現実」の複雑性を、過度に単純化して切り取り、他人や社会の基準に合わせて型にはめ込んだ「ドミナント・ストーリー」となっていることが多い。セラピストは、患者の自己物語を聴き手として受け入れる一方で、物語の本筋とは少し矛盾するような例外的なエピソードを見つけ出し、語りの俎上に乗せていく。そうして「ドミナント・ストーリー」を脱構築していくのである。



 ところで、このようにして物語が書き換え(脱構築)可能なのは何故なのか。一つの理由は、物語とは無数にある現実の出来事の一部を恣意的に切り取って配列したものだから、つねに、そこで捨てられている別様の語りの可能性が存在するということだ。それに加えて、著者が最も重視する理由は――そして従来の学説がうまく捉えていなかったとされるのは――、「自己言及」(自己について自己が語ること)という自己物語の形式が、構造的に、物語の一貫性・完結性・妥当性・客観性を絶えず宙づりにしているのだということである。「語る私」と「語られる私」という二重の視点に引き裂かれている自己物語は、それ自身の内には物語の正当性を支えるものを持っていない。それゆえ、他者の承認によらなければリアリティを獲得できないという不安定さと同時に、様々に変化しうるという可能性をも持つのである。



 著者が「自己物語」に見出している最重要の特徴が、この「自己言及」のパラドックスなのだが、私は個人的には、「自己物語=自己の現実」が「他者」の存在抜きには成り立たないのだという論点のほうに関心がある。

 「自己物語」において他者が果たしている役割には、著者によれば次のようなものが挙げられる。「自己」が自分自身を外側から見るための(語り手の)視点を提供すること。自己の「現在」と「過去」が確かにつながっていることの証人になること。自己が記憶していない(例えば幼少時の)エピソードを語って、物語に起源を与えること。例外的な出来事や解釈を吹き込んで、「自己物語」に変化のきっかけを与えること。物語を承認したり否定したりあるいは修正したりする編集作業に参加することで、暗黙裡に、物語を「すでにそこにあるテクスト」として認めること。そして、聴き手として物語に納得を示すことによって、物語の宙づり状態を一時的に覆い隠すこと。



 これらは、「自己」の存在に現実味を持って生きるためには、「共同体」内のコミュニケーションに包摂されていなければならないということを意味している。そして、本書の中ではほとんど主題化されてはいないのだが、共同体のコミュニケーションもそれ自体が物語であって、そこには「歴史」というものが成立しているということが重要だ。

 「共同体の歴史」という物語を考えたとき、物語を承認したり物語に登場したりする「他者」には、「死者」すらも含まれるのではないかと思われる。もちろん、物語のスケールにも限度はある――語り手は、あらゆることを語りつくす前に死ぬのだから――だろうから、「他者」の範囲を広げすぎても仕方がない。しかし死者たちだって多かれ少なかれ言葉を残しているのであって、彼らの語った「物語」からあまりにも大きく隔たった「自己物語」を、我々は組立てることができないのではないか。(彼らが納得しないだろうと思われるような物語に、我々はリアリティを感じられないのではないかということ。)

 「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」とE・H・カーは言った。その種の「対話」もまた我々の「自己物語」のリアリティを支える柱の一つであるように思えてならない。人間が「物語的」な存在であるということは、「共同体的」かつ「歴史的」な存在であるということと同じなのである。