福田首相退陣をめぐって――西部邁塾長講義録(2008/9/6)


 ――評論家・西部邁氏の、「表現者塾」における講義録です――
(この講義をもとにした西部氏の論評が、『表現者』11月号に掲載される予定です)


 九月六日の表現者塾では、急遽福田首相が退陣を表明したことについて、まず西部塾長がその日居合わせた塾生に簡潔な意見を求めた上で、それらを元に議論を展開して行かれました。主だった論点を以下に取り上げてみます。


 〈福田首相の“聡明さ”〉
 塾生A:福田首相の、マスコミに対する「あなたとは違う」発言には、じつは福田首相の聡明さを見出すことができるのではないでしょうか。
 塾長:ここでの「あなた」とは、おそらく社会科学的な意味での「大衆」を指していると思われます。そもそもこの加速度的に変化する社会(changing society)においては、危機(不確実な未来の中で確率的な予測ができないもの)が常に付きまといます。そこで人間は「実存の不安」の前で生きることを余儀なくされ、最終的には能動的ニヒリズムにしか支えられなくなります。そして政治家の本質とはまさに「不確実性の只中において決意・決断(decision)をなすこと」なのであり、その点で福田首相に言わせれば、「自分はあなた(大衆)とは違う」ということになるのではないかということです。


 〈国際社会は日本に関心なし〉
 塾生B:アメリカでテレビのニュースを見ていて感じたのですが、国際社会は今回の日本の首相退陣について、全くと言ってよいほど関心を持っていないのではないでしょうか。
 塾長:現在、日本は自国の軍隊を持たず、独立国としての国体を保てない状態にあって、他国からは完全になめられています。食料自給率倍増、原発依存率倍増、国防費倍増といった長期プランを掲げる政治家が次の候補に控えているというのであれば、他国も注目するかも知れません。しかし、食料・燃料・環境等の様々な危機の最中にあって、これといった具体的な政策を生み出そうともしない日本には、どこの国も関心を持たないのが当然でしょう。


 〈泡沫候補
 塾生C:今回の候補者はほとんど泡沫候補としか言いようがないのではないでしょうか。
塾長:今までは、首相に立候補するためには長い年月をかけて政治家の資質(人格、能力)を磨かねばならなかったのですが、今回の候補者の顔相を見ると、とても一国を背負って行けるような人物はいないように思われます(笑)。古代から言われているように、そもそも「デモクラシーはコメディーとしての構造を持っている」わけです。その意味するところは、「くだらない自分たちが選んだ政治家なんて、どうせくだらないに決まっている」という国民心理の下で行われる政治は、やがてスラップ・スティック・コメディ(どたばた喜劇)に堕ちゆくことを免れることはできないからです。このことはアメリカでも、相当多くの人間がテレビでしか政局を見ていないという事実が証明していると言えるでしょう。


 〈選出者の責任〉
 塾生D:政治(家)が醜態をさらし続けているのは、我々国民(有権者)に問題があるのではないでしょうか。
 塾長:よくテレビや新聞等が世論調査を行っていますが、そこで発表される内閣支持率は一向に安定することなく、何か事あるごとに上下を繰り返している。このことはまさに、有権者の判断力、分析力、予測力の欠如を意味しているのではないでしょうか。ヨーロッパ人は、昔から大衆が政治に介入することの危険性に警鐘を鳴らし、それと闘ってきました。だからヨーロッパでは、日本のように頻繁には世論調査を行いません。我々は一体どうすればよいのでしょうか。「一度文明が大衆の手に落ちてしまったら、その文明を救うことは事実上不可能である」というオルテガの言葉が正しいとしたら、我々には絶望しか残されていないように思われます。しかし、もしも唯一の希望があるとすれば、そのことに一人でも多くの人間が気付くことではないでしょうか。


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 筆者の意見としては、今後誰が総理になろうとも日本の政治は悪化の一途を辿ることとなり、誰一人とてその状況から逃れることはできないと思われます。しかし、そのこと自体は格別問題であるとは思いません。およそ百五十年前から孕まれていた(一部の侍以外の)日本国民の、「自国を自分の手で守る」という気概を欠いた無責任性の問題が、今、最悪の形で体現されているだけであるように思われます。
 今や我々は侍や軍部といった一部のエリートのせいにして責任逃れをすることはできません。なぜならば政治家も官僚も、我々国民の中から選出されているからです。
 これからは自然の摂理に反することなく、現代の文脈に相応しい「文武両道」の生き方を身につけた国民のみが、この「乱世」を生き延びることができるのでしょう。やがてそうした人たちが、再び日本の真の独立へ向けて貢献してゆくこととなるのではないでしょうか。