負の神としての「悪魔」について


 日本在住の欧州から来た人物と酒場で話していた時のことである。文化の違いをあれこれと話すのは楽しいものであるが、中でもキリスト教の考え方について話を聞くのは、何とも興味深い。そんな話の一つで特に興味深かったのは、彼が日本と欧州の重大な違いの一つが、日本では先生が非常に偉く、無謬なる存在と見なされることがしばしばであるが、欧州では断じてそうではない、と指摘した点であった。こうしたことはしばしば海外から見た日本のステレオタイプの一つとして言われることでもあるので、そのままであればさして注目に値する発言とは言い難いところであったかとも思う。が、その理由についての彼の解釈が非常に興味深いものであった。


 「我々キリスト教圏の人間は、人間とはそもそも罪深い存在であると考えている。したがって、如何に偉い人物であっても、如何に立派な先生であろうと、その罪深さという点では誰しもが同じようなものである。しかし日本では、どうやら人間というのはそれほど罪深い存在だと見なされているようには思えない。だから、人間であるところの先生や師匠が、無謬なる存在だと見なされることもあるのだろう。これが大きな我々との違いなのだ。」


 この解説は非常に納得のいくものであった。このことはすなわち、キリスト教圏では、人々はそもそも人間にある種の期待をかけてはいない一方で、日本では、(あるいはアジアでは)どうやら人間に無謬なる存在になりうる、あるいは控えめにいって近づけるのだという期待をかけているということだと言えるであろう。ついてはその話の流れで、


 「それは結局、キリスト教では、この世の中は、悪魔であるサタンの支配下にあるという世界観が一般的だ、ということなのか」


 と問うてみたところ、何のためらいもなく、そうだ、との返事が返ってきた。なるほど、キリスト教圏では、この世の中は基本的にどうしようもないところなのだと認識されているのである。


 性善説性悪説という言葉で片付けてしまえばそれだけの話になってしまうところかもしれないが、このやりとりは筆者にとって大変印象深いものであった。聞くところから、キリスト教は人間を罪人と考え、この世がサタンの支配下にあると考えている、という知識は持ち合わせていた。しかし、キリスト教圏の人物は(あるいはより正確にいうなら、キリスト教の信仰を携えた欧州の人々は)それを全く常識と捉えつつ、生きているのである。上記のような会話のやりとりを通じて、そうした信仰と共にある生身の生に触れた体験は、筆者におけるその思想の体感的理解を大いに促すこととなったように思う。


 それ以降、あれこれ思いを巡らす折に、「この世はサタンの支配下にある」というどうしようもない否定的な世界観を思い起こしてみる、ある種の思考上の癖のようなものが身に付いてしまった。ともすれば、こういった何とも否定的な世界観を携えることは、何とも厭世的で、ペシミスティックな思考回路になりうるのだ、と考えることが一般的であるかもしれない。しかし、その効果はまるっきり逆であった。「この世はサタンの支配下にある」と考えれば考えるほどに、楽観的に、かつ、前向きに目前の諸事に対峙することができるようになる、という心的効果を感ずるに至ったのである。


 それはおそらく、次のような効果なのではないかと思う。
 まず、おおよそあれこれと思いを巡らすのは、少なくとも己の判断の中で善きことではないかと思えることを為そうとする一方で、思い通りにはならない、という局面が多い。そしてそのように思い通りにならない理由の中でも最も本質的な問題は、他者の自由意志の存在の問題である。これは福田恆存も指摘していたことであるが、聖書の中には、かのキリストですら他者の自由意志にほとほと困らされた、との下りがあるらしい。いずれにしても、もし自身が主張する善が真に善なるものであるのなら、誰もがきっとそれを理解するはずだと考えている一方で、目前の他者がそれを理解する気配が一向にない場合、それは大なる精神的負担となる。とはいえ、その他者を信じていれば、自身が信ずるものが過ちであるやもしれぬとの深い内省を何度も繰り返しつつも、自身が善と信ずるものを理解してもらえるまであの手この手で理解を促す努力を続けることであろう。もしも、目前の具体的個人を完全に信じているのなら、自身の精神の限界を迎えるまで、その作業を無限に続ける他はない(全くの余談ではあるが、例えば夫婦とはそういうものなのかもしれない)。


 しかし、実際には、その作業は実を結ぶこともあれば、実を結ばないこともある。そして実を結ばないことが多くなれば、少なくともその分だけ、厭世的な気分に苛まれてしまうことともなる。つまり、この世は素晴らしいと思えば思うほどに、他者に自由意志が存在する現実のこの世での実際の自身の能力の限界故に、厭世的気分に浸り、反ってニヒリズムに吸着されてしまうという傾きが精神の中に立ち現れてしまうように思うのである。


 ところが、万人が罪人であり、かつ、この世はサタンに支配されたどうしようもない場なのだと認識していれば、そうした厭世的気分に苛まれることは一掃されることとなる。そうした世界の中では他者のために如何に努力しても、それが実を結ばないということこそが、当たり前なのである。それにもかかわらず、他者に自らの思いが伝われば、それは既に一つの偉大なる「奇蹟」である。それを「奇蹟」と捉えることができるのなら、その精神は大いなる喜びに包まれることとなろう。かくして、この世がサタンに支配されていると思えば思うほどに、ますます、楽しく、前向きに、力強く、日常を処していくことができるということがありうることとなるのである。


 ――無論、このようにわざわざキリスト教なるものを持ち出さずとも、それは至って当たり前の、日常において身を処すための伝統的智恵ではないか、と言えば確かにその通りであると思う。しかし、そういう伝統的智恵を持たざる愚かな筆者のような存在ですら、「世の中はサタンの支配下だ」という論理的世界観は逆説的にも現実に身を処す上での一つの救いとなりうるのである。


 とはいえ、サタンの支配下と考えることが救いになりうるためには、実はそれを上回る巨大な楽観論を、密かに持ち続けていなくてはならない(これは「密かに」でなければ、上記のサタンにまつわる心的効果が喪失されることとなろう。それ故、本稿にこうした内容を記しているという時点で既に、それは善からぬことなのであろうとも思う。が、キリスト教文化圏ではどうやら神や悪魔という概念を、そして神の復活なる絶対的なる希望を平気で言ってのけているように見える。もう少し正確に言うなら、少なくとも日本人よりもそうした究極的概念を表明することについてのためらいは小さなものなのではないかと思える。無論、それは思い過ごしなのかもしれないのだが、この点は本論からそれてしまうことなので、その点についてはまた別の機会に考えたいと思う。話を戻そう)。もし仮に、自身の精神も含めて完全に悪魔サタンに支配されることが決定づけられているのなら、それは例えばキルケゴールが「死に至る病」と呼んだ絶望に陥らざるをえなくなるだろう。一言で言うなら、精神のどこにも希望を一切持たぬのならば、前向きに、力強く日常を処していくことなどできはしないのである。それこそ、文字通りニヒリズムである。


 しかし、単純な非ニヒリズムではなく、悪魔サタンの存在を徹底的に信じることを通じて、現実の「この世」に対して徹底的に絶望してみせ、その上でもなお「真の絶望」という死に至る病に冒されぬ力強さを携えることができるなら、その精神の力強さたるや、素朴に「渡る世間に鬼は無し」と他者を何となく信じつつ、それ故に少しずつ絶望していくひ弱な野菊のような精神よりも、遙かに巨大なるものだと言いうるのではなかろうか。いわば、悪魔サタンの存在を全面的に肯定した上で、しかもそれにあっさりと敗北し、死に至る病に冒されぬ程の力強さを持ちえた精神だけが、この世の中で思い通りにはならぬ他者と共に楽しく生き抜く栄誉に与ることができるのではなかろうか。何とも微妙な平衡感覚が必要とされるところではあるが、チェスタトンがかつて言ったキリスト教における巨大な平衡術の本質は、ここにあるのではないかと思う。むしろ、そうした巨大な平衡作業を論理化するための概念装置として神と悪魔の二分法が機能しているのだとの解釈もあながち誤ったものではないように思う。言うならば、絶望と希望の弁証法は、悪魔サタンの明確な想定によって、さらにより上位へのアウフヘーベンが可能となるのである。


 しかし、悪魔サタンの明確な想定は、極めて危険な賭けでもある。悪魔サタンを容易く手なずけることができるなどと、ゆめゆめ思ってはならぬことだけは、決して忘れてはならない。だからこそ、仮にそれが悪魔であろうとも、それを嗤いとばす程の力と余裕をその身に携えておかねばならぬのであろうとも思うのである