表現の自由とナショナリズム――映画『靖国 YASUKUNI』をめぐって

 ※『表現者』2008年7月号掲載


 『靖国』騒動の顛末
 戦時中の靖国神社境内には、陸軍の後ろ盾のもとで軍刀を製造する「日本刀鍛錬会」の鍛錬所が設置されていた。この鍛錬会に関わった刀匠の中では唯一の現役であり、今も高知県で鍛刀に携わる刈谷直治氏が、映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)のメインキャストである。映画は、刈谷氏の仕事の様子とインタビュー映像、そして八月十五日の靖国神社の風景が交互に映し出されるという内容のドキュメンタリー作品だ。まずはこの映画をめぐる騒動の経緯を簡単に振り返っておこう。
騒ぎの発端は、昨年十二月に『週刊新潮』が「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」報じたことで、これに触発された国会議員が、「助成」の是非について疑問の声を上げたのである。映画『靖国』には、文化庁管轄の独立行政法人日本芸術文化振興会基金から七五〇万円が助成されているが、この助成の基準のうち「商業的、宗教的又は政治的な宣伝意図を有しない」こと、および「日本映画」であることという条件を満たしていない疑いがあるとして、二月下旬頃に自民党稲田朋美議員が文化庁を通じて「国会議員向けの試写会」開催を要求し(三月中旬に実施)、また同党の水落敏栄議員や有村治子議員も国会で文化庁の責任者を追及した。さらには、刀匠の刈谷氏と妻の貞猪さんが、「政治的な内容でダメだ」「映画は刀作りのドキュメンタリーと聞いていた。李纓監督はもう信用できない」として、出演場面の削除を要求していると伝えられた(毎日新聞)。また靖国神社も制作者サイドに対し、不許可撮影や、日本刀を靖国神社の「御神体」とするなどの事実誤認を理由に、一部映像の削除を求めている。右派の論者からは、この映画で南京大虐殺の捏造写真が使用されているとの指摘の声も上がっていた。
そして右翼団体が上映中止を求める動きもあって、上映を予定していたすべての映画館が三月下旬に、「近隣に迷惑をかけるから」といった理由で上映中止を決定したのである。ただしその後、「表現の自由」をめぐって各種メディアで議論が相次いだ結果、当初よりも多数の映画館が上映に名乗りを上げて、五月三日に一般公開されるに到った。
 公開後、私もこの映画を観た。助成金問題については、「政治的な宣伝意図を有しない」とは言い難い内容で、ルールに従えばアウトということになるだろう。また、この映画について「政治的偏向はない」(鈴木邦男氏)、「左にも右にも偏向しているようには思えなかった」(呉智英氏)といった評も多かったが、どこをどう見ても反・靖国の映画であった。と言うか、そもそも作品の体をなしていない。刀匠の刈谷氏からは何も聞き出せていないし、靖国神社の風景を収めた映像も、殴り合いや怒鳴り合い、右翼団体や元軍人の奇妙なパフォーマンスなど、境内での様々な「騒ぎ」の映像を無雑作に切り貼りして、なんとなく「問題のある場所」であるという印象を煽ってみただけの映画であった。上映を阻止すべきだとは思わないが、かといって多くの人が観るべきだとも思えない。


 権力による抑圧か、自主規制か
 映画の内容よりもむしろ、今回の騒動をめぐって「これは言論や表現の自由にとって極めて深刻な事態である」(朝日新聞社説)、「いろんな嫌がらせや圧力で表現の自由が左右されるのは不適切だ」(町村官房長官)といった声が多数上がったにも拘らず、実りのある「表現の自由」論がほとんど見られなかったことを問題にしなければならない。
 今回の騒動では、表現の自由をめぐって、大まかに言って二つの批判(論点)が提出されている。一つは、助成の是非を糾した国会議員の行動を「表現の自由への政治的圧力であり、権力による検閲に等しい」(アジアプレス・インターナショナル代表・野中章弘氏)などとして批判する論。もう一つは、右翼団体の軽い抗議で上映をやめてしまった映画館の態度を、「言論の自由の最前線に立つ映画人がこれではあまりに心もとない」(エッセイスト・山口文憲氏)、「このとめどもない『ことなかれ』の連鎖はいったいどうしたことか」(毎日新聞社説)などと批判する論だ。
 前者の批判はほとんど取るに足りない。国会議員が「圧力」をかけたのだと言ってもそれは「助成金の支出を認めるか否か」というレベルの話であって、上映中止まで主張したのはごく一部の右翼団体だけである。山口文憲氏は「その後のメディアの調査報道によると、実際のところ、上映反対勢力は、大規模な街宣活動を展開したわけでもなければ、執拗な抗議を繰り返したわけでもない。私の見るところ、その責任の多くはやはり上映館や運営会社の側にあって、過剰反応をしたあげくに、彼らみずからが自粛パニックにおちいったと考えるほかはないのである」と述べている。あるいは、映画館がパニックに陥ったということすらなく、「彼らはその決断を『無表情に』、まるでビジネス上有利なオプションをルーチン通りに選択したかのような口吻で下した」(神戸女学院大教授・内田樹氏)という見方のほうが正しいかも知れない。
 つまり、政治権力による言論弾圧が行われたなどと騒ぐのは過剰反応であって、今回「表現の自由」を脅かすものがもしあったとすれば――私自身は、そもそもこの映画が「表現の自由」を叫んで守るほどのものだとは思わないが――、それは上映を自主規制した映画館側の、「セキュリティ」および「営業」への過剰配慮である。これは今回の騒動に限った問題ではない。近年、主としてポストモダン系統の社会学者や批評家たちが、現代において言論・表現の自由を阻害しているものは特定の権力者による弾圧ではなく、むしろ「セキュリティ」を過剰に配慮する価値観へとシフトした市民社会の自己監視・自主規制である論じている。言い換えると、特定の意見に反対する者よりも、その意見に本当は無関心な者たちの行動によって、自由な議論が妨げられるようになったということだ。


 「排除型社会」論
 そのような変化のプロセスについて、参考になるのは例えばスコットランドの犯罪学者J・ヤングの分析である。近代の産業社会から後期近代の消費社会へと移行するにつれて、いわゆる「大きな物語」が崩壊して文化は多元化したと言われている。しかし我々はその多様化のプロセスを通じて「自由」になったのではなかった。信頼に基づく共同体社会の紐帯が弱体化して相互の「不信」が高まり、同時に構造的な失業と非正規雇用の拡大によって「不安」が社会関係を覆うようになった。人々は互いの存在を「リスク要因」とみなし合ったり、相手から受け取るであろう便益と損害を計算して合理的に(正確には合理主義的に)付き合い方を決定したりする社会になりつつある――企業の取引が典型的だ――。そして、リスクを最小化するために「セキュリティ」つまり生命と財産の安全保障への配慮が過剰になり、またセキュリティを支援するITその他の技術の発達も手伝って、我々は、「多様性が多様性を妨げる」(ヤング『排除型社会』)という逆説的な不自由のなかに投げ込まれたのである。
 ヤングは、「後期近代社会における社会統制の基調にあるもの、それは『保険統計主義』である。……ここでは正義を追求することよりも被害を最小限にすることが求められている。……それが追求するのは、ユートピアをつくりだすことではなく、敵意に満ちたこの世界に塀で囲まれた小さな楽園をできるだけ多くつくりだすことである」(同書)と述べ、その社会を「排除型社会」と名付けている。ライフスタイルの多様性は賞賛されるが、その多様性を消費するための枠組み、つまり「セキュリティ」に対する脅威は神経症的に排除・管理され、そのためには自由であれプライバシーであれ犠牲にすることを厭わないという社会に我々は生きていると言うのである――営業とセキュリティへの配慮によってあっさり『靖国』の上映を中止した(そして上映を後押しする世論が高まり、営業上のメリットが確信されるとすぐさま上映に名乗りを上げた)映画館は、まことに現代的な振る舞いを見せつけてくれたのだ――。


 戦後民主主義の誤り
 このような社会が到来したことは、戦後民主主義の必然であると思われる。戦後民主主義は、「言論・表現の自由」に関して、少なくとも二つの大きな誤りを犯した。一つは、本来「言論・表現の自由」には、真理=真善美を追究する(ための自由である)という目的を設定しておかなければならないにも拘らず、単なる多様性礼賛に陥ってしまい、「言論・表現の自由」を盾にして真理をめぐる議論を回避することをも可能にしてしまったこと。もう一つは、人間は権力者のあからさまな強制から自由であったとしても、世論の流行や自らの独断に支配されてしまうことが大いにある――自由論の古典を書いたJ・S・ミルが主張したのも、「多数者の暴虐」が時として政府権力よりも暴力的に自由を阻害するということであった――のであり、我々には、自由に精神を働かせて真理を追究する「義務」があるにも拘らず、「権利」としての自由しか問題にしなかったことだ。
 この度の『靖国』騒動にあっても、「マスコミを見渡してみても、要するに、表現の自由って大切だよね、という、何十年も前から良識として言われていることをただ繰り返してみただけの議論ばかり」(呉智英氏)であった。「言論・表現の自由」に「真理の探究」という共通の目的が置かれることなく、しかもそれが義務ではなく権利にすぎないのであれば、危険を冒してまで「言論・表現の自由」を守ろうという動機など芽生えようはずもない。「自由愛好家は、自由を制限しないつもりでいたが、実はそれを定義しなかったにすぎない。単に自由を限定しなかったつもりが、自由を無防備にさせた」(G・K・チェスタートン)というわけである。


 言論・表現の自由ナショナリズム
 共通の目的のない無防備な自由が、「排除型社会」や「多数者の暴虐」を招き、暴力的に自由を妨げるという逆説に陥るということは、保守思想においてはほとんど常識的に予想されていたことである。ポストモダニストたちが今頃になって「多様性が多様性を妨げる」(ヤング)とか「消極的自由の拡大がむしろ私たちの自由を窒息させつつある」(東浩紀)といったことを指摘し始めたのは、いよいよ近代主義の矛盾が我々の生活を目に見える形で破壊し始めたということの証であろう。
 ではこの逆説から脱け出すためには何が必要なのか。保守思想の見解によれば(そしてポストモダニストはなかなか認めようとしないが)、それはナショナリズムに他ならない。自由には真理=真善美の追究という共通の目的が必要であり、また抽象的理念としての自由は、社会の歴史的な秩序に根差すのでなければ具体的な生命を手に入れることができないからだ。チェスタートンは「キリスト教は規範と秩序を明確に打ち立てたが、その秩序の何よりの目的は、善が思うさま奔放に活動する余地を与えることにあったのだ」と言った。彼が擁護したのはキリスト教の正統だが、我々の文脈では「国柄」のことだと理解してよい。あるいはもっと平凡に「公序良俗」のことだと言ってもいい。言論・表現の自由は、そうしたナショナルな規範を人々が徳として内面化することによってはじめて、保障されると同時に生かされるのである。
 そうであれば、「言論・表現の自由」を守るためにも、ナショナリティを動揺させるような映画の公開は原則として禁止されなければならない。もちろん、そんな危険な映画は滅多に出来上がらないであろうし、この度の『靖国』にしても、ナショナリティを危機に陥れるというほど刺激的な代物ではない。しかし原則論としてはそう考えざるを得ない。
 また、保守派は『靖国』が「政治的な宣伝意図」を有しているために助成のルールに抵触していると言うが、そのルール自体も間違っている。政治的な内容であっても、「公序良俗」に良い刺激を与えるような映画が資金難のために制作できないという場合には、政府は積極的に助成すれば良いではないか。


 歪んだナショナリズムの時代
 ところで私は「ナショナリズムを取り戻す必要がある」と言いたいのではない。人間社会からナショナリズムが消え去ることなどあり得ないのであり、現代日本にあっては、ナショナリズムは歪んだ形で存在しているのだ。ここで詳しく論じる余裕はないが、ナショナリズムを構成する諸要素──外交を通じた「対外独立」と内政を通じた「対内統合」、超越的価値へ向けた「宗教感覚」と死の意識に基づく「安全保障」、そして未来へ向けた「政治決断」と過去に対する「歴史解釈」――が、あるべきバランスを喪失していることこそが問題なのである。
 したがって今なすべきことは、我々が「ポストモダン」とか「後期近代(レイトモダン)」などと呼ばれる時代に到ってもなお歴史共同体と社会契約の二層構造の上に生活を営んでいて、相変わらずナショナリストたらざるを得ないのだということを指摘し続けること。そして、ナショナリズムの構造を包括的に捉えてその歪みを見通し、是正を試みることだ。そうした、ナショナリズムを語り直す作業を経てこそ、我々は自らの精神の自由な躍動を経験することができるだろう。

 ※ 文中の映画『靖国』に関する発言は、『論座』六月号の特集「『靖国』騒動への疑問」、および新聞各紙より引用。その他、映画パンフレット、『キネマ旬報』四月下旬号などを参照。