「おかわいさうに」と憲法改正


 憲法改正のゆくえ
 「おかわいさうに」は三島由紀夫が「戦後日本の大衆」を指すことばとしてよく用いた。戦中、アメリカの捕虜兵を見て或る女性が「おかわいさうに」といって当時世間から非難を浴びたことを引き合いにし、思想や観念を度外視し、低い次元で右往左往、同情を振りまき続ける偽善をこう呼んだ。昨今の憲法議論を含め政治を観察するにつけ、三島の嘆きが聞こえてきた次第である。
 去る年、安倍元首相の政権公約の中心に掲げた憲法改正には保守主義者のみならず国民の――少なくともマスコミに群がるテレビ視聴者の限りでは――いくらかの高揚感があったのは記憶に新しい。もっとも、高揚感はあくまで高揚感であり、テレビ視聴者としての刺激の一環で、観念ではなく情動であった。情動性もあいまって、安倍首相の参議院選挙における歴史的な大敗北により衆参がいわゆるねじれ現象を引き起こし状況は一気に転じた。「戦後レジームからの脱却」として掲げられた憲法改正という政策のエネルギーは那辺かに霧散したようには見られているであろう、あたかも能力のない政治家による誤った改憲がなされることを未然に防いだものとして。
 ところが改憲論議が国会から完全に閉め出された訳ではなく、福田政権下においてもなされている。五月三日付けの日本経済新聞にはおそらく誰もが興味すら持てずに聞き流していたであろう小沢・福田の党首討論において、いくつかの憲法改正についての論議の余地があるという内容が記されている。
 まず両者とも、改憲の必要性そのものは認めている。この点、自民党の新憲法起草委員会や民主党のかねてからの指針とも合致する。問題はその内容で、参議院選挙後のいわゆる衆参ねじれ状態がもたらす害が、議論そのものを沈静化はもちろん高次から引きずり降ろした。それにはいくつか原因があり、ひとつは改憲が日本の大衆にとって、あまりに抽象性の高い議題であり、選挙前に問題になったことになっている社会保険庁や政治家のスキャンダルの方に国民は意識が向かったことが挙げられる。これに牽連される格好で、憲法議論もメタファーの壇上から大きく垂れた。
 また改憲という政治的に大きな意味を持つイベントには、強い指導者が矢面に立ち、或る程度の言葉を、ある程度の振る舞いでもって、ある程度の思想を掲げなければならない。同記事の言葉で「首相が表立って動けない状況」はそれができない状況をよく示している。つまり野党の協力が必要な状況では、「生活第一」という――小沢代表の口から出るフレーズとしては甚だ噴飯物であるが――野党におもねる必要性が、ほとんど物理レベルのうちにでてくる。したがって、生活レベルで国会運営する方針となる。穏健派の福田氏ならなおさらである。


 生活第一と憲法
 では、党首討論でもたれた憲法改正の論点、「四つの条文と六つの論点」はいかなるものであったか。技術論になると長くなるので簡潔に書くとする。
 ひとつは四二条の二院制である。町村信孝氏が官房長官補佐時代に一院制が望ましいと公言したことから現在のねじれ国会まで、自民党では参議院に否定的である。その真意は単純で、国会よりも内閣に権限を集中させることである。抽象的な物言いになって恐縮だが、小さい政府、効率化、合理化、国民の声が直接届く衆議院、という「ある種の」流れが見て取れよう。
 次に五九条の衆院の再可決。小泉政権の「郵政解散」のときに問題になったことは記憶に新しい。つまり、衆参の法案の可否が異なった場合、衆議院での再可決をよりスムーズにするため、「衆議院の三分の二の再可決」というハードルを下げようではないか、という議論。
 くわえて五九条のみなし否決の期間短縮。ガソリン税問題から、衆議院で可決したが参議院で六〇日以内に結論が出ねば否決とみなす条項を、短縮するべきだという議論。これらいずれも、四二条のある流れに属するといえる。
 次に六〇条、予算の衆院優越。事実上、強行採決で無力化しうる条文であり、議論の必要性が唯一あるだろう。
 六一条。条約承認の衆院優越。在日米軍への駐留経費負担いわゆる思いやり予算が二〇〇七年度内に承認されず、空白期間ができてしまったことの反省から、「参議院の三〇日以内に議決しない場合には承認」についての議論である。これも四二条の「ある流れ」であり、さらに彼らの思想的な「お里がばれているよ」と皮肉のひとつも言いたくなる。
 最後に、憲法に規定はない同意人事について。日銀総裁人事でもたついたことから、現行の衆参の合意がなくとも、衆院で決めてしまおうという議論。
 以上、議題となった条文を駆け足で追ったが、読んで頂いたことに一言お礼を言いたくなる、実にロマンのかけらもない議論群である。生活第一とは、政治が技術的な国会運営に「ある種」のエキスを注入することで、マスコミ的で実存的な諸問題に対応したように見せ、お茶を濁すことにある。ここで政治家の資質が問題だなどと結論づけることはいかにも短絡で、むしろ「おかわいさうに」と瑣末な時事談義を趣味とする人々の盲動的投票行動が、ねじれ現象を起こし、これらの議論に落ち着いたと言え、福田首相の咎は二の次であろう。
 また先述の紙面では、中山太郎自民党憲法審議会長のインタビューがあり、安倍首相は憲法議論を言い過ぎた。また民主党が護憲の社民と組んでいるから憲法議論がかくも低い次元に堕した、という言い訳に近い趣旨の発言がある。
 本来、長年国の内外で問題となっていた日本の国防を含めた議論の契機が形成されたことに有益性があると考えるべきで、具体的で合議するための準備が簡単な話を進めれば、やがて抽象的で難解な話も見えてくるでしょうよという、いかにも日本人好みの帰納法的な議論過程である。小沢代表の掲げた「生活第一」という言葉は、政治家の思考法、議論の作法にまで根付いていると言わざるをえない。
 政治家たちまで「おかわいさうに」に、つまり、「おかわいさうに」が政治家と相対化し、情にかまけて全体を見失えば、かくて世論の大暴走、民主主義の喜劇性が前面に押し出される。


 日本人は憲法が苦手である 以上のことから、憲法議論は大いに停滞していると言わざるをえない。聞けば国民投票法で設置された憲法審査会も、事実上、休眠状態であるという。むしろバックラッシュ的に、安倍首相の作った流れが転用されたともいえなくもない。もっとも、戦後長く金科玉条として尊ばれた憲法が、なんであれ、改正という経緯を経て「一〇円傷」でもいいので改正すればよし、と広く見ることもできよう。しかし、プロセスとなる議題が、出た結論が、かくも粗末におさまれば、一〇円傷から致命的な感染症を起こすこともあるだろう。むしろ議論に入るための、一種のスイッチが必要であるように思う。法哲学者、井上達夫風に言えば、「縦の力」が致命的に日本人に欠けている。かつての日本人ならば、一神教はもたずとも、もろもろの哲学なり神々を包括して、さらに社会統合による共同体の分厚い「横の力」を蓄えて、地味ではあるが骨のある人間たちであったように思える。
 以前、宮崎哲弥氏のラジオ番組で、生放送で聴取者に憲法の是非を問うものがあった。津々浦々の生活者に電話し五名ほどの生の声を聞くという趣旨の番組だが、番組は議論というより個々の演説に近かった。最後に宮崎氏がつぶやくように「やっぱ、日本人には憲法が向いてないわ」と言ったのが象徴的であった。もっとも聴取者のやり場のない主張の熱にも多少同情はする。聴取者にすれば、やはり横のつながり、酒場や床屋で議論できないから、ラジオに電話をかけてみたらなんだか余り実りがなかった、程度のことであったことだろう。宮崎氏の話をまとめようとする努力がなんだか寂しく思えた番組であった。
 憲法は生活レベルの、おそらく哲学や文学から遠く離れたような人々が見えうるもっともメタ化された言葉である。だからこそ、エリートたる政治家がメタの所在地を明晰に、真に表してしかるべきで、世人の声だけ聞くなら、地盤沈下する一方である。あれだけ盛り上がった大衆も、いまや憲法改正反対が超える始末である(読売新聞、今年四月付けの世論調査)。
 「おかわいさうに」が自分に向けられ、矮小な個が蔓延する昨今、たとえ盲動であれ強権的であれ、安倍政権下で、国会運営の機能論的憲法学を超えた、大きなうねりが国会を通じ、あってもよかったものをと、嘆かざるをえない。